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26.M兄弟とF召会の責任兄弟たちへの手紙 その霊の中に「客観的な私たち」をはじめ万物が含まれる。 上なるエルサレム、真の幕屋はキリストと「客観的な私たち」 などで構成されるその霊である。 |
拝 啓 主にあって愛するM兄弟およびF召会の責任兄弟たちへ 上のクイズは、'99年9月に小生が東京に在る召会の集会所で発表した内容の簡潔な説明です。 これを読んであなたがたは、私たちの霊の中にユダヤ人と異邦人が存在することについて意外に思うかも知れません。 しかし、新しい人が私たちの霊の中にあるとするなら、必ずそうなのです。なぜなら、ユダヤ人と異邦人はキリストと共に、一人の新しい人 の構成メンバーだからです。そして、これが正解です。 さらに、私たちの霊の中にある新しい人は一つ霊(エペソ2:18)であり、一つ霊はその霊でもあります。よって、ユダヤ人と異邦人はその霊の構成要素に含まれるのです。あなたがたはこれも以外だと思うでしょう。 この問題で小生は地方教会から20年間というものシャットアウトされてきました。「あり得ない話だ」とね。誰も理解しないのですが、しかし、これが真理なのです。 そこで、私たちの霊の中に存在するユダヤ人と異邦人 とは一体何んぞやと言うことを説明します。 リー兄弟はコロサイ書のライフスタディでこう述べておられます。 キリストが受肉されベツレヘムでかいばおけの中に生まれた時、彼はご自身の上に人性を着られました。この人性は私たち並びに被造物のすべてを含みました。ですから、私たちが生まれる前にさえキリストは私たちをご自身の上に着られたのです。キリストが人の生活を通過された時、私たちは彼と共にそれを通過しました。さらに彼が十字架に行き、十字架につけられた時、私たちは彼と共に十字架につけられました。それから私たちは彼と共に墓の中に葬られました。事実、被造物のすべてがそこに葬られたのです。ですから、キリストの墓は万有網羅の墓でした。私たちはまたキリストと共に復活し、そして、昇天しました。・・・(コロサイ書ライフスタディM27p314) 受肉の際にキリストは私たちをご自身の上に着られた、この私たち、つまりユダヤ人と異邦人のことを私は「客観的な私たち」と呼びます。 そして、キリストは私たちをご自身の上に着られた 私たちについて説明しているのが実はエペソ2:1-6です。 エペソ2:1 ところであなたがたは、自分の違犯と罪の中に死んでいて、 2:2 かつてはそれらの中で、この世の時代に流され、空中の権威の支配者、すなわち不従順の子らの中に今も活動している霊の支配者にしたがって、歩いていました. 2:3 わたしたちもみな、かつては彼らの間で、自分の肉の欲の中で振る舞い、肉と思いの望むままを行なっていたのであり、ほかの人たちと同じように、生まれながら激怒の子でした. 2:4 しかし、あわれみに富んでおられる神は、わたしたちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに、 2:5 わたしたちが違犯の中で死んでいた時、わたしたちをキリストと共に生かし(あなたがたが救われたのは,恵みによるのです)、 2:6 キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました. エペソ2:1-6にあるユダヤ人(2:2、3)、異邦人(2:1)なる私たち(2:5-6)がそれです。 2:1は「そして、Kai」と言う言葉で始まります。(「とろで」は話が改まるようでまずい。) つまり話は前の節(1:23)から続いているのです(注)。 (注)パウロは1:22で万物を服従させ、万物の上に頭にしたことを述べた後に、2:1からは すべての中のすべて(1:23) の中の人々のことを語り始めるのです。この記述の仕方はコロサイ書と似ています。彼は先ず万物のことを言ってから(1:19-20)、人について語ります(1:21-22)。 しかし、リー兄弟はエペソ2:1-6の「あなた方」や「私たち」について、普通に、地上に生きている主イエスを信じる前の私たちユダヤ人、異邦人だと理解しました。(エペソLSM20、21) しかし、前述の通り、私にはリー兄弟とは異なる見解があります。ここのユダヤ人、異邦人なる「私たち」はキリストの受肉の際に彼の肉体の中に取り込まれた私たちのことでなければなりません。 なぜなら、5-6節をご覧なさい。キリストと共に復活、昇天して御座に着いているではないですか。だから、この私たちは地上に居る私たちではあり得ません。これが、キリストの受肉の際に彼ご自身の肉体の中に取り込まれた私たち、即ち、「客観的な私たち」なのです。 リー兄弟は、幕屋のたれ幕のケルビムから、受肉の際に、ご自分の肉体の中に万物を取り込まれたことを見られました。これは大きな啓示の光によるものです。主を讃美します。 しかし、彼はエペソ2:6に述べられているユダヤ人、異邦人が天にキリストと共に座している「客観的な私たち」であることを見ませんでした。というか彼は地上に居る私たち、即ち、「主観的な私たち」との区別がとても曖昧ではっきりしませんでした。これはとても残念なことです。 言い方を変えるなら、ここ(エペソ2:6)には一つの完成された結合が存在します。キリストとユダヤ人、異邦人との完全な結合です。これが実は2:15の一人の新しい人なのです。いや、そればかりか、傑作(v10)であり、一つ霊(v18)、聖なる宮(v21)、神の住まい(v22)でもあるのです。一つの存在ですが、これには多くの名前が付いています。召会ではあり得ません。 さて、ガラテヤ書4章26節に 上なるエルサレム というものがあります。 ガラテヤ4:26 ところが、上なるエルサレムは自由であり、それは私たちの母です. 旧契約と新契約との対比において、旧契約はハガルによって象徴され、現在のエルサレムにあたる、と言い、それに対して、新契約はサラによって象徴される上なるエルサレムであると言います。 リー兄弟はこの 上なるエルサレム について、フットノートにはこう言っておられます。 上なるエルサレムは、最終的に、新天新地における新エルサレムとなるでしょう(啓21:1―2)。そしてそれは、約束の契約と関係があります。彼女は、新約の信者の母です。新約の信者は、律法の下にある奴隷ではなく、恵みの下にある子です。私たち新約の信者はみな、上なるエルサレムから生まれました。そして、新天新地における新エルサレムにいるでしょう。(261) これを読んで、兄弟たちは 上なるエルサレム が一体何んであるか解りますか?このフットノートから、それが如何にして存在するに至ったか、あなた方には理解できますか。 このフットノートにはそのような説明は全くありません。ただ、「上なるエルサレムは最終的に新天新地における新エルサレムになるでしょう」とか、「私たち新約の信者はみな、上なるエルサレムから生まれました」とだけは言うことが出来ました。 リー兄弟はただパウロの言葉をそのまま字面(じづら)を追っているだけで、説明にはなっていません。「私たちの母です」、とか「エルサレム」という文字があるのですから、だれだってそれくらいのことは想像できます。つまりリー兄弟は上なるエルサレムが何者であるのか、そして、それが如何にして存在するに至ったかは理解していなかったのです。 新エルサレムは三一の神だけでは構成されません。人々が存在しなければなりません。即ち、三一の神と選びの民、ユダヤ人と異邦人が存在しなければ新エルサレムの種である上なるエルサレムは存在しないのです。実はそれに加えて、万物即ち、全ての生き物たちも含まれるのです。(エペソ1:10、エペソ4:10、コロサイ1:19-20) 上なるエルサレムは三一の神のみならず、あのユダヤ人と異邦人なる選びの民、そして万物で構成されていなければならないということです。 至聖所をご覧なさい。そこには黄金のケルビムがあります。これは全被造物を象徴しています。たれ幕に刺繍されたケルビムで象徴される万物がキリストの肉体の中に取り込まれてから十字架と復活を経て至聖所の黄金のケルビムで象徴される栄光化された万物に変身したことを象徴しています。これらがその霊の中に含まれているのです。 上なるエルサレム=その霊 は新エルサレムの種ともいうべき存在です。その霊は母親です。そして、その霊のあるところには自由があります。 ヨハネ3:6 その霊から生まれる者は霊である。 IIコリント3:17 そして主はその霊です.そして主の霊のあるところには、自由があります。 リー兄弟の認識によれば、その霊は勿論、手順を経た三一の神だけで構成されます。ユダヤ人と異邦人やすべての生き物たちは含まれません。 だから、リー兄弟は 上なるエルサレム がその霊でもあることを見ることはありませんでした。だから、彼には上なるエルサレムが一体何者であるのか理解出来なかったのです。したがってまともな説明は出来ませんでした。 ヘブル書には 真の幕屋(ヘブル8:1)、さらに完全な幕屋(9:11)というものがあります。これについて8:1のフットノートには「主が張られたものです。」とあるだけで、それがいったい如何にして存在するに至ったのか説明がありません。 さらに完全な幕屋 についてはフットノートさえありません。これもキリストとユダヤ人と異邦人を含む万物との結合です。真の幕屋もリー兄弟の理解の範疇にはありませんでした。従って、これらは地方教会の理解の範疇にはありません。 このように、その霊の中に含まれるユダヤ人と異邦人を私は「客観的な私たち」と称してきましたが、これがキリストと結合された明確な存在であることが解って貰えると思います。 その霊は三一の神のみならず、ユダヤ人と異邦人なる「客観的な私たち」を含む万物が存在して初めて聖書が正しく理解できるようになるのです。 兄弟たち、如何ですか、私は異端を語っていますか。 この認識だと、聖書の多くの箇所が開かれてくるのです。これは喜ばしいことではないですか。 遅かれ早かれ、あなたがたはこの真理を受け入れざるを得ない時がやって来ると私は信じています。その時はあなたがたにとっては大いなる祝福と喜びの時となるでしょう。ハレルヤ!その時が早く来ることを祈っています。 F召会の兄弟姉妹たちの霊の目が明らかにされて、上からの祝福が益々増し加わる時がやって来ますように。そして、私たちの父なる神と私たちの救い主なる御子イエス・キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン! 敬 具 2019年2月○日 東 信男 次頁 付録 ![]() 図の説明: FIG.2(下の図)従来の理解: その霊に関する一般的な理解。 この図には二つのラインがあります。左側のラインはキリストと「客観的な私たち」との結合を表します。右側のラインは最後のアダムが命を与える霊となったことを示すラインで「客観的な私たち」は含まれません。そして、二つのラインの間には関連性がありません。 FIG.1(上の図)新しい理解: FIG 2 の二つのラインが一つに合わさったもの。即ち、その霊の中に「客観的な私たち」が含まれています。この理解こそが、その霊の正しい理解です。 以上 2019/02/18 東 信男(Higashi Nobuo) ftmp2009☆gmail.com |