HOME 25.T兄弟への手紙
エペソ2:16の e]n au]tw が「それによって」と間違って訳されていることについて


               ユダヤ人と異邦人はどこに?

エペソ2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の
中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、

1)上の御言葉から、

一人の新しい人=キリスト+二つのもの(ユダヤ人+異邦人)

とおおざっぱに定義できます。

2)さて、リー兄弟によると、この新しい人は現在、私たちの霊の中にもあると言われます。

私たちの霊

「霊の中で」という句はエペソ書では第一章を除けば、他のどの章の中にも出て来ます。あなたは私たちの霊の中には何があると認識しますか。あなたは主イエスと神の霊が、私たちの霊の中にあると言うかも知れません。それはもちろん正しいです。しかし今や私たちは、新しい人がまた私たちの霊の中にあることを見る必要があります。神の住まい、彼の住まわれる場所は私たちの霊の中です(2章22節)。予表では、エルサレムの古代の都は神の住まいでしたが、今日神の住まわれる場所は私たちの霊の中です。私たちの再生された霊は今日のエルサレムです。・・・ (エペソライフスタディM24より)

ここで、クイズを一つ。

問、 では、ユダヤ人と異邦人はどこに居ますか?

答、 ユダヤ人と異邦人もやはり私たちの霊の中に居ます。

ピンポーン?

そうです。1)から、新しい人の構成要素であるユダヤ人と異邦人も私たちの霊の中に居ます。これが正解です。そして、私たちの霊の中にある新しい人はその霊でもあります。よって、ユダヤ人と異邦人はその霊の構成要素に含まれます。









ハレルヤ!主にあって愛する
T兄弟へ

 御元気でしょうか。小生は主の憐れみと恵みによって元気に過ごしております。
以前、霊の中にある神の住まい のことであれこれ議論しましたね。あれから15年が経ちました。"相当に重症な"東 信男ですw ハレルヤ!

最初のクイズは'99年9月に東京の集会所で発表した内容の要点を簡潔に表したものです。当時は誰にも理解して貰えずに終わりましたが、この簡潔な説明ではっきりと理解して貰えるのではないかと思いますが、
T兄弟、如何ですか?

早いもので、あれから20年が経ちました。しかし、実のところ、私の確信は益々強化されているのです。上のクイズからも明らかなように、ユダヤ人と異邦人が私たちの霊の中に存在しておることは明らかです。このクイズだと幼稚園児でも正しく答えることが出来ます。 しかし、この問題の故に小生は地方教会から総スカンを食らって今日に至っているのですよ。 ハレルヤ!御名に栄光がありますように!

さて、
T兄弟は全時間訓練でギリシャ語を教えているんだって? 凄い、凄い。
貴兄は語学に興味を持っておられたよね。あなたの賜物が主に大いに用いられていることを主に感謝します。

一、エペソ2:16の問題点

そのギリシャ語なんだけど、エペソ2:16にこんな御言葉があるのはご承知と思います。

エペソ2:16 また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです。

そのギリシャ語がこれ、
2:16
kai' a]pokatalla;xhj tou'v a]mfote;rouv e]n e[ni' sw;mati tw#j yew#j dia' tou# staurou# a]poktei;nav th'n e/cyran e]n au]tw#j

アンダーラインの部分ですが、あなたは少しおかしいと思いませんか。e]n au]tw#j を それによって と訳しています。普通だったら そ(れ)の中で とか 彼の中で あるいはそ(れ)の中にある とか 彼の中にある と訳すべき所です。後者はフットノートにありますね。

また、それによって とは何を指すの? 十字架でしょ。ところが 十字架を通して が既に存在しているのです。

「それ」を「十字架」に直すとこうなります。

エペソ2:16 また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.十字架によって敵意を殺してしまったのです。

十字架がダブルで記述されています。この訳はどう考えてもおかしい。そう思いませんか。こんな訳が今でもまかり通っているのです。

他の聖書もだいたい同じです。【回復訳】も含めて、いくつかの例を示しましょう。

【新改訳改訂第3版】
エペソ 2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

【口語訳】
エペソ2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

【新共同訳】
エフェソ2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

【回復訳】
エペソ2:16 また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです。

【KJV】
2:16 And that he might reconcile both unto God in one body by the cross, having slain the enmity thereby:

【RCV】Eng.
And might reconcile both in one Body to God through the cross, having slain the enmity by it.


"
e]n au]tw"の部分は本来ならば「その中にある、 in it」 と訳すべき所を上記六つの訳は

十字架によって 【新改訳改訂第3版】
十字架にかけて 【口語訳】
十字架によって 【新共同訳】
それによって 【回復訳】
thereby 【KJV】
by it 【RCV】eng

と訳しています。これらの訳はどう考えてもおかしい!(尤も、新改訳改訂第3版の2:16のフットノートを見ると、別訳 「ご自身にあって」とある。寧ろ、こちらの方こそが正解であると言うべきです。)
ところが、驚くべきことに、多くの英訳聖書が、この翻訳を採用しているのです。信じ難いことです!

英語訳だけを取ってみると、
NLT(刊行1996)、ESV(2001)、BSB()、NASB(1971)、KJV(1611)、HCS(2004)、ASV(1901)、DBT(1867)、ERV(2004)、GWT(1995)、ISR()、ISV(2011)、KJP(1611)=KJV、NET(2005)、OJB(2002)、WEB(2000)、WBT()、RSV(1952)、NRSV(1989)、MSG(2002)、NIV(1978)、RCV(1991) (英語回復訳)

全22書ありますが、これらがみな thereby あるいは by it あるいは by which などと訳しています。前掲の日本語訳の四つの聖書もすべて同様の翻訳を採用しています。 
以下に他の数例を挙げます。

【RSV】
Eph.2:16 and might reconcile us both to God in one body through the cross, thereby bringing the hostility to an end.

【ASV】
Eph.2:16 and might reconcile them both in one body unto God through the cross, having slain the enmity thereby:

【NASB】
Eph.2:16 and might reconcile them both in one body to God through the cross, by it having put to death the enmity.

【NIV】
Eph.2:16 and in one body to reconcile both of them to God through the cross, by which he put to death their hostility.


以上挙げた中で一番古いのがKJVです。だから、他の訳はみなKJVに 右へならえ!をしたんでしょうか。

唯一、DRB(Douay-Rheims Bible ドゥアイ・リームズ 1582) という聖書だけが「in himself 彼ご自身の中にある」とまともに翻訳しています。

◎【DRB】
Eph.2:16 And might reconcile both to God in one body by the cross, killing the enmities in himself.
 
この訳は
killing the enmities in himself彼自身の中にある敵意を殺すことによって)と正しく訳しています。

さらに過去に遡ってみることにします。

◎ウルガータVulgata(390-405頃 ヒエロニムス)はどうか。
【Vulgata】
Ad Ephesios 2:16 et reconciliet ambos in uno corpore Deo per crucem interficiens inimicitiam in semetipso (神は 十字架を通して それ自体の中の敵意を 殺すことによって)

ヒエロニムスによるものとされるウルガータVulgataの場合も、「それ自身の中にある敵意を殺した」とギリシャ語通りの訳です。

では、
◎ウイクリフ聖書(Wycliffe's Bible1382-1395頃)はどうでしょうか。
【Wycliffe's Bible】
Effesies2:16 makynge pees, to recounsele bothe in o bodi to God bi the cros, sleynge the enemytees i
n hym silf.


随分と今の英語とは違っていますが、何となく理解できます。正しい訳であることが解ります。下が現代語に書き換えたものです。

Eph.2:16 to reconcile both in one body to God by the cross [that he reconcile both in one body to God by the cross], slaying the enmities in himself.

これは、正しい訳でした。

ティンダル(1494or1495-1536)訳の聖書(
Tyndale Bible1526)はどうか。

【Tyndale Bible】
Eph.2:16 and to recocile both vnto god in one body thorow his crosse and slewe hatred therby:


駄目ですね。一般的な誤訳になってます。

あのルター(1483-1546)のドイツ語聖書はどうでしょう。

ルター訳聖書
【LutherBibel1545 Letzte Hand】(bibel-online net、コトバンク・ルター訳聖書)
Eph.2:16 vnd das er Beide versonete mit Gott in einem Leibe / durch das Creutz / Vnd hat die Feindschafft getodtet / durch sich selbs.(それ自身を通して)

ルター訳の場合には「彼は十字架を通して・・・それ自身を通して敵意を殺した」とあります。「それ自身を通して」は「十字架を通して」と訳すべきでしょう。するとこれは一般的な誤訳です。ということはKJV(1611)よりは初期のルターの時代(1545)に、KJVに見るあの一般的な誤訳が既にあったということになります。

では、ルターとほぼ同時代の改革者カルヴァン(1509-1564)はどうでしょう。彼が何と言っているかが気になります。彼は自分で独自にラテン語に翻訳したものを注解の際に用いました。だから、ウルガータVulgata とは異なります。彼のEph.2:16は次のようになります。

◎カルヴァン訳(~1555)
Eph.2:16 Ut reconciliaret ambos in uno corpore Deo per crucem, inimicitias in ipsa interimens. (その中にある敵意<sg>を殺すことによって)(BibleHub)
(ウルガータ)
Ad Ephesios2:16 et reconciliet ambos in uno corpore Deo per crucem interficiens inimicitiam in semetipso (それ自身の中にある敵意<pl>を殺すことによって)

多少の相違はありますが、意味はだいたい同じのようです。正しい訳です。
ところが、彼のエペソ2:16に関する注解の中では、英語訳ですが、
slaying the enmity thereby(それによって敵意を殺すことにより) と言っているのです。矛盾していますね。

しかし、これは英語訳であるので、翻訳者が果たして忠実に訳したかどうかという疑問が残ります。ネットでエペソ書のラテン語の注解書を見つけることは出来ませんでした。その中で彼はその中にある敵意については、前節15節の彼の肉体の中で敵意を廃棄することと比べると、より適切な解釈である、と言っているくらいで、小生が感じているような問題は特に感じてはいないようです。
By the cross. The word cross is added, to point out the propitiatory sacrifice. Sin is the cause of enmity between God and us; and, until it is removed, we shall not be restored to the Divine favor. It has been blotted out by the death of Christ, in which he offered himself to the Father as an expiatory victim. There is another reason, indeed, why the cross is mentioned here, as it is through the cross that all ceremonies have been abolished. Accordingly, he adds, slaying the enmity thereby. These words, which unquestionably relate to the cross, may admit of two senses, -- either that Christ, by his death, has turned away from us the Father's anger, or that, having redeemed both Jews and Gentiles, he has brought them back into one flock. The latter appears to be the more probable interpretation, as it agrees with a former clause, abolishing in his flesh the enmity. (Ephesians 2:15.)

結局、エペソ2:16が正しく訳されているのは、小生がネットを使って調べた所では、

◎ウルガータVulgata(390-405頃 ヒエロニムス)
◎ウイクリフ聖書(Wycliffe's Bible1382~1395頃)
◎カルヴァン訳(~1555)
◎DRB(Douay-Rheims Bible 1582)


の四つの聖書であることが解りました。小生、誤訳の源はひょっとしてルターじゃなかろうか、という疑念が湧いてきました。と言うのは、ティンダルはルターのドイツ語新約聖書を得てから、それが契機で1522年に英語聖書の翻訳を開始したようですから
(TyndaleBible Wikipedia)、ルターの影響はかなり受けている筈ですし、また、ティンダルからKJVへの影響は多大なものがあったようです。「後の欽定訳聖書(KJV)にはティンダルの仕事の大半が反映されており、このためにティンダルは欽定訳聖書(KJV)の父と考えられている。欽定訳の新約聖書90%近くがティンダルのものと考えられており、約3分の1はティンダルとまったく同一である。」(英語訳聖書Wiki)

 よって、KJVの翻訳者たちが源ではなく、どうもルターではなかろうかと考えられます。

二、明らかな誤訳の理由

しかし、なぜ大部分の聖書でこんな誤った訳になったのかを考えてみる必要があります。先ず、原文通りに訳すと、「その中にある敵意」となります。「その中にある敵意」の その はこの節の前の方にある「一つ体」を指します。

「一つ体」とはキリストご自身の肉体のことです。召会ではありません。よって、これは「キリストの肉体の中にある敵意」ということになります。

これは翻訳者(ひょっとしてルター?)たちにしてみれば、神学上の重大な問題が生じると考えざるを得なかったでしょう。と言うのは、キリストご自身の肉体の中に神に対する敵意が存在することになるのですから、こんな訳(やく)では、とんでもなく恐れ多いことです。こんな訳ではとてもじゃないが訳出できるものではない、と考えたのではないでしょうかね。

当時の翻訳者たちは、キリストの受肉の際に彼の肉体の中に取り込まれた選びの民なるユダヤ人と異邦人たちから成る 「客観的な私たち」 についての認識が無かった故に無理もないです。かような誤解が生じた結果、現在あるような翻訳に収まったのでしょう。

しかも、本節中には既に十字架が存在するにも関わらず、敢えて、更に、十字架を追加して二度も使用されるという不自然極まりないものとなっています。翻訳者たちの苦渋の決断が窺える箇所です。

上述の通り、一つ体の中にある敵意 と言うのは、この「客観的な私たち」がキリストの肉体の中にいて神に敵意を抱いていたということです。

これはエペソ2:1-3が十字架以前のユダヤ人と異邦人なる「客観的な私たち」の堕落した姿であることから容易に察しが付くことです。

この節をリー兄弟は、主イエスを信じる前の私たちの姿であると解釈しましたが(エペソLSM20、21)、これは間違いです。5、6節をご覧なさい。復活してキリストと共に天上に座しています。だから、これは地上の私たちの事を指すのではありません。「客観的な私たち」のことを言っているのです。

で、キリストが十字架上で屠られたとき、この「客観的な私たち」も彼と共に屠られました。そして、彼らの中に渦巻いていた神への敵意も自動的にキリストと一緒に屠られてしまったのでした。こうして、キリストの十字架と復活を通して、ユダヤ人と異邦人の両者からなる「客観的な私たち」は神に和解させられたのでした。

結局、この節の正しい訳は次のようになるでしょう。

エペソ 2:16 また、一つ体の中にある両者を、十字架を通して、その中にある敵意を殺すことにより神と和解させるためでした。

こうして、完全な一人の新しい人が出現しました。勿論、これも、キリストご自身の個人的な体の中で起こった出来事でした。この一人の新しい人はキリストの復活を通して出現した極めてユニークな存在です。

その一人の新しい人の構成要素は、前代未聞!キリストとユダヤ人異邦人即ち「客観的な私たち」です。ここでは述べられてはいませんが、その他の諸々の生き物である万物が含まれる筈です。エペソ1:23にある すべての中のすべて がそれです。すべての中のすべてを満たす方、キリストが召会に与えられたのでした。

一人の新しい人とは、キリストと「客観的な私たち」を含む万物との結合の完成であると言えます。(ヘブル10:14) これはまさにキリストの奥義(エペソ3:4)であり、新エルサレムの第一段階の完成でした(付録FIG.1、ガラテヤ4:26の上なるエルサレム)。またこれは一つ霊(エペソ2:18)即ち、その霊でもあります。

如何ですか、
T兄弟、この一節だけを見ても、「客観的な私たち」がいないとうまく行かないことがお分かりかな。 いずれ、あなたがたは「客観的な私たち」を受け入れざるを得ない時が来ると私は信じています。これはあなたがたにとって喜びとなるでしょう。

地方教会の人たちの霊の目が明らかにされて、上からの祝福が益々増し加わる時がやって来ますように。そして、私たちの父なる神と私たちの救い主なる御子イエス・キリストに栄光と誉れが世々限りなくありますように。アーメン!
                                  敬 具

2019年2月○日
東 信男









次頁 付 録

図の説明:
FIG.2 従来の理解: その霊に関する一般的な理解です。
この図には二つのラインがあります。左側のラインはキリストと「客観的な私たち」との結合を表します。右側のラインは最後のアダムが命を与える霊となったことを示すラインで「客観的な私たち」は含まれません。そして、二つのラインの間には関連性がありません。

FIG.1 新しい理解:FIG.2 の二つのラインが一つに合わさったもの。即ち、その霊の中に「客観的な私たち」が含まれています。この理解こそがその霊の正しい理解です。
以上

2019/02/25
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009☆gmail.com