ロマ 6:6 わたしたちは次のことを知っています.わたしたちの古い人が彼と共に十字架につけられたのは、罪の体が無効にされて、わたしたちがもはや、奴隷として罪に仕えることがないためです.
ガラ 2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。
ロマ7:4 こういうわけで、わたしの兄弟たちよ、あなたがたもキリストの体を通して、律法に対して死に渡されたのです.それは、あなたがたが別の方、すなわち、死人の中から復活させられた方に結び付いて、わたしたちが神に対して実を結ぶためです。
|
これらの箇所は私たちを大いに悩ませてきた聖句です。
読者はこれらの聖句を読んで、霧に包まれたような、あるいは、狐につままれたような感覚に陥られた経験はないでしょうか。
私は十字架上で死んでいる。しかし、私は生きている。この一見矛盾した問題を読者はどのようにして解決して来られたでしょうか。追求心旺盛な読者なら、大いに悩まれた筈です。今、現在悩んでおられるかも知れません。
その矛盾の打開策はまさにこれ。「客観的な私たち」です。
今や「客観的な私たち」の独断場です。パウロは「客観的な私たち」の存在について神から明確な啓示を受けていたのでした。
私たちの古い人が彼とともに十字架につけられた
私はキリストと共に十字架につけられました。
あなたがたも、キリストの体を通して、律法に対しては死に渡されたのです。
これらの聖句の中の 私たちの古い人、私、あなたがた、はいずれも「客観的な私たち」であることに気付くべきです。しかも、キリストの受肉以来、十字架に至る迄の堕落した状態の私たちであり、私であり、あなたがたです。(エペソ2:1−3)その私たちの古い人や私、あなたがた、が十字架上でキリストと共に死刑執行されたのでした。
その死刑執行の事実は、地上に居る「主観的な私たち」の信仰生活に直接的に甚だ良い影響を与えるのです。
私たちの古い人が十字架上で死んだ結果、罪のからだが無力とされて私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるのです。
私がキリストと共に十字架につけられた結果、キリストが私のうちで生きることがおできになるのです。そして、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって、いま私が肉にあって生きていることが可能なのです。
あなたがたがキリストのからだによって律法に対して死んだ結果、キリストと結ばれて神のために実を結ぶことができるようになったのです。つまり、律法の要求を、旧約の律法よりも遙かに高い要求をさえ満たすことが出来るようになったのです。
「客観的な私たち」に生じた出来事が、「主観的な私たち」即ち、地上に居る私たちの上にすぐに、直接的に良い影響が出て来るのです。
ただし、一つ条件があります。霊を活用すること。(ローマ8:4、5、6 ガラテヤ5:16−25)
私たちが霊を活用する時にだけ、霊によって生きる時だけ上記の効果が出現するのです。なぜなら、その効力はすべて私たちの霊の中にあるその霊の中にインプットされているからです。
私たちの肉の中には一切存在しせん。私たちが霊を活用しない限り上記の効果を発揮することはあり得ないのです。
異邦人であったときのように、生まれながらの人の行き方をしてはいけません。霊によって生きることを実践しなければならないのです。これが唯一の条件です。パウロが霊に生きるように口を酸っぱくして言うのはそのためです。
パウロがこう言うには訳があります。彼自身が、恐らくは知らないで、霊に生きることをせず、肉によって生きたために手痛い経験をしたことがあります。ローマ人への手紙7章の経験です。彼が肉にあった時(7:5-)彼は律法の要求を実行しようとして、貪(むさぼ)るまいと努力しました。しかし、それを止めることが出来ませんでした。その原因は何か。それは彼自身の中にある、彼の肉体の中にある罪が貪りを惹起したからです。この罪というのはわたしたちに罪を犯させる性質のことです。この罪が彼の足を引っ張って律法の要求を実行させないようにしたのです(17)。それで彼は自分の貪りに打ち勝つことが出来ませんでした。しかし、或る時、彼は自分の霊の中にキリストがおられる事に気付かされました(8:1-2)。ハレルヤ!おかげで彼は霊によって生きることを主から教えて戴き、貪りに打ち勝つことが出来たのでした。このパウロの経験はわたしたちクリスチャンが実際生活する上で極めて重要な意味があります。もしわたしたちが未信者と同じように肉によって生きているならば、たとえクリスチャンであっても善行を行なう上でパウロと同じように失敗します。もし霊によってあなたが生きるならば善行を行うことが出来るようになるのです。なぜなら、上述の通り、キリストの十字架によって、彼は私たちが地上の生活においてうまく行くようにちゃんと十分な準備ををして下さっていたからです。この神聖な主の備えをわたしたちは十分に活用すべきです。この主の備えはわたしたちにとって宝物です。しかし、今のクリスチャンはどれほどこの宝物を、この事実を、わたしたちの愛する主による神聖な備えを、ご存知でしょうか。わたしたちクリスチャンはすべて勝利者なのです。なぜなら、わたしたちの中にはその勝利した方がおられるからです。しかし、そのことを知らずにいる方々があまりにも多いのではないかと危惧する者です。(追加'18.11.9)
以上
追加2018/11/9
2018/8/2
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009☆gmail.com
|