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21.コロサイ3:10における新しい人

コロサイ
3: 9 互いに偽りを言ってはいけません.あなたがたは、古い人をその行ないと共に脱ぎ捨て、
3:10 新しい人を着たのです.その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです.

コロサイ3:10の「新しい人」の理解
3:10 新しい人を着たのです.・・・ その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです.
リー兄弟
からだなる教会(召会)

教会(召会)を着るとは一体どういうこと?
教会(召会)

新しい人としてのその霊
即ち、キリストと「客観的な私たち」であるユダヤ人と異邦人との結合体

エペソ2:15と同じ
教会(召会)

新しい人を着た者たちの集合体である教会(召会)のことをここでは新しい人と呼んでいるものと理解する。

コメント: コロサイ3:10 におけるリー兄弟の新しい人理解は、エペソ2:15の誤った新しい人理解に基づいている為にお話にならない。



コロサイLSM28内の問題箇所

1. リー兄弟は、 「教会(召会)を着る」と口では言われないのですが、
実はそのように語っておられます(その1、 
四. 新しい人を着る)。「教会(召会)を着る」とは一体何?

2. リー兄弟は一方で新しい人は団体的な実体なる教会(召会)である、と言われますが(その1)、
他方で、新しい人はわたしたちの霊の中にあると言われます(その2)。
これは明らかな矛盾です。しかも、その矛盾の説明が全く無い。


            コロサイ書LSM28の本文(その1)        p331 コメント

四. 新しい人を着る

十節でパウロは言明します。「また、新しい人を着たのであって、それは彼を創造された方のかたちに従って全き知識へと新しくされつつあるのである。」新しい人を着るというのは新しい着物を着るようなものです。この節の新しいのギリシャ語は若さ、時間の中での新しさを意味します。これはエペソ書第四章二十四節で使われている語とは違います。エペソ書四章二十四節は性質、本性、また形体の中の新しさを意味します。

リー兄弟のコロサイ書とエペソ書の新しい人についての理解は、ギリシャ語の言葉は異なるが(neos anthrwpos. とkainos anth.の違い)、意味はそれほど違わないものと考えられる。

新しい人はキリストに属します。 それは十字架上で創造された彼の体です。 (エペソ書 2:15-16) それは個人的ではなく団体的です。 エペソ書第二章第十五節の中の明瞭な幻によれば、 新しい人は団体的実体です。これは、それが、 二つの民族、ユダヤ人と異邦人とから造られているという事実によって証明されます。さらにまた、エペソ書第二章第十六節はこれらの団体的な人々から創造された新しい人はキリストの体であることを示しています。ですから、新しい人と体とは同意語であり、交換的に用いてもいいわけです。

リー兄弟によれば、エペソ書第二章第十五節の一人の新しい人は二つの民族、ユダヤ人と異邦人とから構成されるキリストの体なる教会(召会)である。よってこれは団体的な実体であるリー兄弟はエペソ書の新しい人=教会(召会)の理解をそのままコロサイ書に適用する。
  新しい人は体であること、また体は新しい人であることは、新しい人は一人の個人的な実体ではなく、一つの団体的実体であることの強力な兆候です。 こういうわけで聖書の翻訳のあるものが、新しい自己を着ることを言っているとしているのは重大な誤りです。新アメリカ標準訳はコロサイ書第三章第十節で、「新しい自己を着た」という訳を採用することにより、まさにこの間違いをしています。これは非常に重大な誤りです。それは聖書を翻訳することを超えてそれを事実上変更するところまで行っています。ギリシャ語は人を意味し、己を意味していません。ですから、新しい人を着ることを語るのは全く間違っています。コロサイ書第三章第十節によれば、私たちが着たのは新しい人です。新しい自己ではありません。 私たちが着たのは新しい人です。新しい自己ではありません。

この新しい人は体なる教会(召会)であるから、新しい人を着るということは、教会(召会)を着ることを言っていることになる。

では、教会(召会)を着るとは一体何ぞや。
果たしてパウロが教会(召会)を着るなどと意味不明なことを言うであろうか。


            コロサイ書LSM28の本文(その2)       p332
コメント

(一) 彼を創造されたかたのかたちのとおりに
全き知識へと新しくされつつある

エペソ書第二章で、新しい人は創造されたと告げられています。しかし、コロサイ書第三章第十節では、新しい人は彼を創造されたかたちのとおりに全き知識へと新しくされつつあると告げられています。エペソ書とコロサイ書とは姉妹関係の書ですが、新しい人に関してそれぞれが言っていることはぴったり同じではないのです。どうしてわたしたちは、一方では新しい人は創造されている、他方では新しい人は新しくされていると言うことができるのでしょう。 わたしたち旧創造に属しているものは新しい人の創造の中に含まれたのですから、それは新しくされる必要があるのです。この新しくされることは、「全き知識へと」という句によって示されるように、おもにわたしたちの思いの中で起こります。わたしたちの霊の中には新しい人がすでに創造されました。新しい人が復活の中でわたしたちの霊の中に創造されるまでは、わたしたちは神の霊または神の命をわたしたちの内側に持っていませんでした。わたしたちは一つの霊を持ってはいたのですが、わたしたちの霊は神聖な命を内容としていませんでした。しかし、新創造が復活においてわたしたちの霊の中で起こった時、聖霊が神聖な命を伴ってわたしたちの存在の中に加えられました。その霊と神聖な命とがわたしたちの霊に加えられたこの事は、新しい存在、新しい人を産出しました。この理由により、新しい人はわたしたちの霊の中で創造されたと言うことが出来ます。

1.(アンダーラインの部分)
新しい人がわたしたちの霊の中で創造されたはよいが、ユダヤ人と異邦人はどうした。どこに居る?



2.(その1)では新しい人は教会(召会)であり、(その2)では新しい人は霊の中に存在する。
これは明らかな矛盾である。

エペソ書でも同じことがある。




2018/6/19
東 信男(Higashi Nobuo)
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