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項目 [回復訳]のフットノート コメント
上なるエルサレム
(ガラテヤ4:26)
261上なるエルサレムは、最終的に、新天新地における新エルサレムとなるでしょう(啓21:1―2)。そしてそれは、約束の契約と関係があります。彼女は、新約の信者の母です。新約の信者は、律法の下にある奴隷ではなく、恵みの下にある子です。わたしたち新約の信者はみな、上なるエルサレムから生まれました。そして、新天新地における新エルサレムにいるでしょう。 このフットノートに来て、人が知りたいのは、@これは何?Aこれは如何にして存在するに至ったか? である。この261のフットノートに満足できる人は誰もいないだろう。最終的に新エルサレムになることぐらいはだれだって想像が付くからである。この存在は一人の新しい人と同じ者「客観的な私たち」を含む全豊満と完全に混ざり合ったミニタイプの新エルサレムそのものである。

神の傑作
(エペソ2:10)
101ギリシャ語は「ポイエマ」で、「作られたもの」、「手のわざ」、「詩として書かれ、作られたもの」を意味します。詩的な文章だけでなく、作者の知恵と構想を表現するどんな芸術品も、詩と考えられます。わたしたち、神の働きの傑作である召会は、神の無限の知恵と神聖な構想を表現する詩でもあります。
 天、地、人は、神によって創造されましたが、神の傑作ではありません。しかし召会、キリストのからだ、すべての中ですべてを満たしている方の豊満(1:23)、団体の宇宙的新しい人(15節)は、傑作です。わたしたちは恵みによって救われ、神の傑作となり、神によってあらかじめ備えられた良い働きの中を歩くようにされました。
地上の堕落と対立と欠点だらけの不完全な召会が神の傑作だと考える人が正直いるだろうか。神の傑作は召会ではない。一人の新しい人と同じくキリストの十字架と復活を通して創造されたキリストと「客観的な私たち」との完成された結合、即ち、合併(incorporation)である。これこそまさに傑作である。

聖なる宮
(エペソ2:21)
215あるいは、聖所。宮の内なる部分です。 上記と同じく、キリストと「客観的な私たち」を含む全豊満との合併された存在。
宮とは聖徒たちが究極的にそこにおいて神に奉仕する場であることを示していると思う。

神の住まい
(エペソ2:22)
223文脈によれば、21節(21節)の聖なる宮は宇宙的であり、この節の神の住まいは地方的です。 上記と同じ存在。神と人とが愛の中で永遠に安らぎ共に住まう場所である。
栄光の望みキリスト
(コロサイ1:27)
273キリスト:わたしたちの霊の中に住んで、わたしたちの命、パースンとなっておられるキリストは、栄光の望みです。彼が来られる時、わたしたちは彼にあって栄光化されるでしょう。これは、内住のキリストが、わたしたちの全存在に浸透して、わたしたちの体が変貌され、彼の栄光の体へと同形化されることを示しています(ピリピ3:21)。

275栄光:キリストは今や、栄光に満ちている奥義です。この栄光は、キリストが再来して彼の聖徒たちを栄光化される時(ローマ8:30)、極限まで明らかにされるでしょう。ですから、それは望み、栄光の望みです。キリストご自身がまた、この栄光の望みです。

栄光とは究極の完成である新エルサレムのこと。キリストご自身は彼の内側には既に全豊満即ち、和解された「客観的な私たち」を含む万物が含まれており、それらは完成されている。即ち、キリストご自身が新エルサレムのひな形、ミニタイプの新エルサレムである。それゆえに、彼ご自身が新エルサレムの望みそのものである。

真の幕屋、
さらに大いなる、さらに完全な幕屋
(ヘブル8:2、9:11)
フットノートはなし。
上記と同じ、キリストと全豊満、即ち、「客観的な私たち」を含む万物との完全な混ざり合いの完成である。これはモーセの幕屋の完成である。コロサイ1:22はその一光景である。
真の幕屋がなんであるか、また如何にして存在するに至ったかの説明が全く存在しない。
リー兄弟はこのことをご存知無かった。


まとめ:上なるエルサレム、神の傑作、聖なる宮、神の住まい、栄光の望みキリスト、真の幕屋、さらに大いなるさらに完全な幕屋はいずれもキリストの十字架と復活を通して完成されたキリストと「客観的な私たち」を含む全豊満との完全な結合、即ち、合併である。
これらの重要な項目は、「客観的な私たち」というキリストの受肉において彼の肉体の中に取り込まれ、彼の人の生活と十字架、復活を経てキリストと完全に結合され、完成された存在である。このような存在を抜きにしてはこれらの項目を理解、認識することは不可能である。


2017/9/11
東 信男(Higashi Nobuo)
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