| HOME | 9.認める |
ローマ人への手紙
6:11 ですから、キリスト・イエスの中で、あなたがたも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていることを認めなさい。
6:11 Likewise you also, reckon yourselves to be dead indeed to sin, but alive to God in Christ Jesus our Lord.
(ギ)(6.11 ou=twv kai' u[mei#v logi;zesye e[autou'v nekrou'v me'n ei}nai th#j
a[marti;aj
zw#ntav de' tw#j yew#j e]n Cristw#j ]Ihsou# tw#j Kuri;wj h[mw#n)
1.聖書の証言と経験とのギャップ
ローマ6:11の「認めること」について、教理的な面、経験と実行の面について述べます。
あなたには、こんな経験がお有りじゃあないでしょうか。
「ガラテヤ2:19(20)によれば、自分はキリストと共に十字架に付けられた、と書かれている。
また、ローマ6:6によれば、私たちの古い人はキリストと共に十字架に付けられたと、しかも、6:11では自分が罪に対して死んだことを認めよ、と言ってる。
否、そればかりか、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認めよ、と言っているではないか。
だが、どうだ、今の自分はなんだ。肉ばかりだ。
癇癪を起こしてばかりいるじゃあないか。
妻に愚痴はこぼす。会社での人間関係もうまくいかない。
私は罪に対して死んでなんかいやしないし、ましてや、神に生きる者だなど、とんでもない話だ。
とても、そんなこと認める気にはなれないねえ。」
などと自己嫌悪に陥ったことはありませんか。如何でしょう?
その結果、あなたは自分自身に失望し、聖書に対しても懐疑的になったりしたことはありませんか。
今でも多少そうでしょうか?
ハハハ、これは全く私の経験でもあるのです。
当然のことですよ。
実は、罪に対して死んでキリスト・イエスの中で神に生きているのは、あの”客観的な私たち”なんです。
地上で、聖書と自分の経験とのギャップに苦しんでいるあなたや私などの地上の私たちは”主観的な私たち”です。
キリストと共に十字架に付けられ、罪に対して死に、復活して神に対して生きているのは、この”主観的な私たち”のことではないのです。”客観的な私たち”の方(ほう)なのですよ。
つまり、二千年前のキリストの肉体の中にあったあなたや私、即ち、”客観的な私たち”に生じた出来事だったんですよ。間違えないでください。5
で、聖書はですね、その”客観的な私たち”が罪に対して死んだこと、また、キリスト・イエスにあって神に生きていることを認めなさい、と言っているのです。
ですから、今、現在のあなた(”主観的な私たち”のひとり)が「死んでなんかいやしない。ましてや、神に生きるなんてとんでもない。」というのは極めて当然のことなのです。
今は、まだまだ肉いっぱいの私たちであるのですからね。
ですから、はっきりと知っておいてください。
十字架に付けられて死んで、今や神に生きているのは、確かに自分ではあるけれども、地上に生きているこの自分、”主観的な私たち”ではないということ。そうではなくて、キリストの受肉の時から彼の肉体の中に取り込まれていた私たち、即ち、”客観的な私たち”であるということをです。
最初からこのことが解っていたなら、自己嫌悪に陥る必要はなかったのです。
聖書に対して懐疑的になることもなかったのです。
「なーんだ、それだったらアーメンできるよ。百遍でも認めてあげましょう。」
それでいいのです。
2.では、どうするのか
「じゃあ、どうすりゃ、癇癪を起こさないで済むようになれるんだ?」
当然ですよね。
そこが知りたい。
あなただけではなく、誰しもが願うところです。
このホームページの名前は「聖書真理ノート2」です。お話しするのは真理の面だけです。経験はその範疇外のことです。
しかし、ここまで来たからには、その範疇を出ざるを得ないようですね。
そう、では経験についてもお話し致しましょう。
ところで、”客観的な私たち”のその後はどうなったんでしたっけ?
キリストと共に十字架に付けられた。それから、主と共に命を与えられ、共に復活させられ、共に御座に着いたのでしたよね。これはエペソ2:5-6にはっきりと書いてあります。
2:5 違反の中で死んでいたわたしたちを、 キリスト・イエスの中で、キリストと共に命を与え(あなたがたの救われたのは、恵みによるのです)
2:6、共に起きあがらせ、共に天上で座につかせて下さいました。
これが、二千年前の出来事です。じゃあ、今はどうなの?
とお尋ねでしょう。
そう、現在の”客観的な私たち”はどうしているんでしょうか。
はい、今もそこにいるのです。キリストと共に御座に着いているのですよ、二千年前からずーっとね。
何故、そう言えるかですって?
私たちが御座から降りたって記事は聖書のどこにもないではありませんか。
また、ヘブル人への手紙をご覧下さい。12章22節から24節まで。
[[回復訳] ヘブル人への手紙
12:22しかし、あなたがたが来ているのは、シオンの山に、生ける神の都である天のエルサレムに、無数の御使いたちの宇宙的集会に、
12:23天に登録されている長子の召会に、万物の裁き主である神に、完成された義人たちの霊に、
12:24新しい契約の仲保者イエスに、アベルの血にまさって語る注ぎの血にです。
22節で、「あなたがたが来ているのは、」と言ってるんですが、これは、あなた方が来たのか、来つつあるのか、はっきり分かりませんが、「あなたがたが来たのは、」が正しい訳です。 近づいているんじゃあなくて、もう既に到着してそこにいるんですよ、という意味なんです。
何処に到着したかと言いますと、「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、.....」にです。
この場所は前に言いました、エペソ2:5-6の御座と同じ所です。
そこに私たちは、即ち、”客観的な私たち”はキリストと共に到着して、そこに居るんです、今日に至るまで。よろしいでしょうか。
これが”客観的な私たち”の現在です。
この”客観的な私たち”はどんな状態で居るのかと申しますと、完成された栄光の状態においてです。
これは最高の状態ですよ。
これ以上の姿はあり得ないのです。だって、御座に着いておるわけでしょう。ですから、栄光なのです。栄光化、即ち、神ご自身で満たされ、神と一つになってさえいるんですよ。20
勿論、最早、癇癪を起こしたりはしないのです。それは、遠い過去のこと、十字架に付けられる以前のお話であったのです。
この”客観的な私たち”も十字架に付けられる前はひどいものでしたよ。
思いだしてください。ローマ人への手紙5章6節8節10節です。弱く、不敬虔、罪人、神の敵であった私たちでした。
また、コロサイ書 1章21節では、私たち”客観的な私たち”がキリストの肉体の中にあったときには、「かつてあなたがたは神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの思いの中で敵であったのですが、」と言っているのです。
ひどいもんですね。私たちが主イエスを信じる前と全く同じだったのです。
しかし、ハレルヤ、そのような”客観的な私たち”ではあったのですが、キリストと共に十字架を経過した後は、すぐ前で言いましたように、キリストと共に命を与えられ、共に復活させられ、共に座に着けられたのでした。なんという変化でしょうか。月とすっぽんの違い以上ですね。
おわかりでしょうか?”客観的な私たち”はこのように完成された状態で、今、現在、天上に存在しておるのです。
ですから、ローマ6:11で、「・・・キリスト・イエスの中で、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていることを認めなさい。」
と言っているのです。栄光の中に有るわけですから、文句なしに、まさに「キリスト・イエスの中で神に生きている者」ですよね。
3.その霊(御霊)として、地上の私たち”主観的な私たち”に来る
で、それまでか、と言いますと、いえいえ、そればかりではないのです、実は。
私たちは受肉の時からそうでしたが、私たち、”客観的な私たち”は最早、キリストから離れて存在することはあり得ないのです。一つにしっかり結合されているわけですから、彼がおられるところに”客観的な私たち”は常にいることを思い出してください。
その霊の中に信者が含まれるとは神の冒涜だ、と言って毛嫌いする古い考えの人居ますが、これは誤った聖書理解であることは既に申しました。
ところで、キリストは今や命を与える霊となっておられます(1コリント15:45)。つまり、彼はその霊(御霊)即ち、聖霊でもあられるのです。そして、彼は今、地上の私たちの中に来てくださっていますね。
ならば、この栄光化された”客観的な私たち”も、このキリストと共にその霊(御霊)の中に存在しておるわけです。つまり、”客観的な私たち”は地上の私たち、即ち、”主観的な私たち”の中にも来ていることになります。
ご覧なさい。完成されて、栄光化されたものが、今や、私たちの中に存在しているのです。地上の私たち、”主観的な私たち”はこれと同じ存在にならないでしょうか?はい、そうなるのです。いえ、今、既に、少しづつ、そのようになりつつあるのです。だって、こういう言葉がありますよ。
エペソ2:22
その方の中で、あなたがたもまた共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至るのです。[回復訳]
「神の住まい」というのは、今言ってる、”客観的な私たち”とキリストとの結合したあの完成され栄光化された存在です。
それが今、私たちの霊の中にあって、私たちが地上で共に建造される間に、私たちの霊の中にある、「神の住まい」と同じものになるのだと言っているのです。30
この私たちの霊の中にあるものは、最高に完成されたもの、栄光化されたものです。
これとおなじものとなる、と聖書は証言しているのですよ。聖書の証言は真実で偽りのないものです。
私たちの栄光化は私たちが良い行いをする問題ではありません。全く違います。
そうではなくて、この栄光化された存在に浸透される問題です。
調度、吸い取り紙にインクを浸透させるように、私たちの魂の部分の中へと、その霊(御霊)に浸透して頂く問題ということです。
私たちの思いや、意志、感情は、主を信じているとは言っても尚、堕落していて、不安定なものであり、汚れてさえいます。
しかし、その霊(御霊)がそのような不安定な各部分に浸透したらどうなるでしょうか。
思いや意志、感情は浸透してきたものと同じようにならないでしょうかね?
なるのです。即ち、栄光化されていくのです。
吸い取り紙の色がインクの色と同じになるようにですね。
それぞれの部分が、不安定ではなくなるのです。神の浸透によって、少しづつ、栄光化さえされるのです。思いは清められ、また冷静になるでしょう。意志は弱々しかったのが徐々にしっかりしたものになるでしょう。感情は、すぐ癇癪を起こしていたのが、そうではなくなり、寛容になっていくのです。35
しかも、その人は、世間における貫禄とは何かひと味違った、神の浸透であるが故に、天的な、神的な雰囲気を湛えた人となっていくのです。そうではないでしょうか?
そういう人にあなたは確実におなりになるのですよ。
4.神の立場で物事を見る
「理屈は分かった。じゃあ、この私はどうすりゃいいんだ?」
はいはい、理屈が長くなりました。
聖書はどう言ってますかね。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ8:28)
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(1テサロニケ5:18)
あなたが癇癪を起こしたのは、人のやってることが全く気に入らない。事が自分の思い通りにならない。要するに自分に起こることが嫌なんですね。
ところがですよ、神から見ると、あなたの周りで起こるその嫌でたまらない事柄は、実は、あなたにとって有益な事なのです。だって、「万事益となる」と聖書は言ってるんですから。ところが、それをあなたは、心の中で、ヤダヤダ、と叫んでは拒否し続けてこられた。そうでしたね。
このように、あなたがご自分の周りのことにヤダヤダ言っているってことは、実は、神ご自身に対してヤダヤダ言っているのと同じなのです。
なぜなら、あなたが神の言に逆らっているわけでしょう。神は困って手をこまねいて、ただあなたを見ておられるだけ。あなたに手を加えることが出来ない。つまり、聖なるインクをあなたの魂の中へと浸透させることが出来ないのです。あなたが主を拒んでるわけですからね。
で、今度は、少し視点を変えて、神の見方で物事を眺めてご覧なさい。
聖書は「すべての事について、感謝しなさい」と言っているのです。ですから、嫌なことでも、口先だけでもよいですから、ちょっと、主に感謝してみませんか。
職場の上司の**課長が全く気に入らないかも知れない。そこをですね、「主よ、**課長を感謝します。」と、そっと口に出して言ってみるのです。
間違えないでくださいね。その課長さんに向かって言うのではありませんよ。主イエスにそのようにお祈りするのです。
あなたの家庭では、夫婦関係がうまくいってないかも知れません。
あなたが夫ならば、奥さんのことを、「主よ、私の妻、○子の故に感謝します。」と、主に向かって言ってご覧なさい。
あなたが奥さんならば、どうしても赦せないあなたのご主人のことをですね、「主よ、大嫌いな夫、△雄の故に感謝します。」と一言、主に向かって言ってみるのです。
あなたは学生さんですか。悩みは尽きないことでしょう。でも、それらを、「主よ、◇◇、○○、△△を感謝します。」と主に申し上げるのです。
また、あなたはお年寄りの介護が大変ですか。深刻ですか。ではそのことも、主に「観謝します」と言うのです。
よろしいでしょうか、間違わないでくださいよ。「感謝します。」と口に出して言うのです。それだけで良いのです。心は感謝する気持ちなんぞ、これっぽちも無いかも知れません。それでもよいのです。ただ、あなたの周りの問題について、「主よ、◇◇..を感謝します。」と口に出して言いさえすればよいのです。
これが、ポイントです。心は伴わなくとも良いのです。先ず、口に出して言う。これが大事なんです。
これを何度かやってるうちに、少しづつ感謝するのが容易になってくるでしょう。これは、今まで神に逆らっていたあなたが少しずつ神を受け入れ始めたことを意味するのですよ。そうなると、神はあなたに喜んで手を下すことがおできになるのです。そうです、あの聖なるインクがあなたの魂の中へと浸透することが出来るようになったのです。その結果、何かがあなたの内側で動き始めるのです。お解りでしょうか。注)
外側は何も変わらないかも知れません。しかし、何か、あなたの内側で、少しばかり動きがあるかも知れません。
嫌な課長が、それほどではなくなるでしょう。苦手だった奥さんが、まんざらではなくなるでしょう。また、大嫌いだった夫が大嫌いではなくなってくるでしょうよ。大学生のあなた、苦手な学科が、結構、興味が持てるようになるかも知れませんよ。介護がそれほど深刻なこととは感じられなくなるかも。
内側で何か変化が生じたとするなら、それは、聖なるインク、即ち、あの栄光化された存在、キリストと”客観的な私たち”との結合したものが(実は、これは主イエスご自身でもあるのですが)、あなたの魂の中に浸透してくださった証拠なのです。栄光があなたの内側で増し加わったのです(2コリント3:18)。
これは本当にハレルヤなことです。 これこそ、永遠に価値のあることなのです。なぜなら、聖なるインクが、即ち、あなたの中の”客観的な私たち”を伴う神ご自身が増し加わったのですから。
しかし、その霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きる。(ローマ8:13)
をあなたは実践しておられるのです。
こうして、天の”客観的な私たち”が神に生きている者であるように、地上の”主観的な私たち”も同様に神に生きている者となっていくのです。ハレルヤですね。
経験と実行についてのお話でした。是非お試し下さい。
以上
2017/4/2
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009(atmark)gmail.com