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7. わたしたちがまだ弱かったころ |
[回復訳] ローマ人への手紙
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:8 ところが神は、わたしたちがまだ罪人であった時に、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を、わたしたちに明らかにしておられである。
5:10 というのは、わたしたちが敵であった時に、御子の死を通して神に和解させられたからには、和解させられている今、彼の命の中で救われるのは、なおさらのことです.
ここの箇所も一見すれば、当然なこととして、すっと通過してしまいそうな箇所です。
ちょっとご注意戴きたいのが、わたしたちがまだ弱かったころ、とキリストが不敬虔な者たちであるわたしたちのために死んでくださった時とが同じです。(6節)
同様に、わたしたちがまだ罪人であった時とキリストがわたしたちのために死んで下さった時とが同じですし、(8節)
わたしたちが敵であった時に、御子の死を通して神に和解させられたのも同時期です。(10節)
これらを一緒にすると、
わたしたちがまだ弱くて、罪人であり、神の敵であった時に、御子なるキリストがわたしたちの為に死んで下さり、神に和解させられていました。
この「わたしたち」とは、この書簡の著者であるパウロにとって、彼の時代の彼自身を含む「わたしたち」のことを言っている積もりなのでしょうが、
この書簡が聖書になったとたんに、この「わたしたち」は時間を超越した「わたしたち」となってしまいました。
つまり、この書簡を読む人たちの時代の人々を含んだ「わたしたち」となってしまったのです。
「そういうことでよいのか?パウロの時代の事だけを言っているのだろう。」と言うご意見があるかも知れませんが、
これでよいのです。聖書には普遍性があります。
その普遍性を強力に援護(?)するのが「客観的な私たち」です。
「客観的な私たち」はすべての時代の人々を包含します。したがって、全ての時代の「わたしたち」をすべて含んでいるからです。
パウロがここまで認識していたかどうかは分かりませんが。
尤も、彼が生きている間に、主が再臨なさると考えていたようですから、そこまでは考えていなかったかも知れません。(1テサ4:15)
したがって、これらの聖句が、十字架に掛けられる前の、即ち、古い人であった時の「客観的な私たち」の状態を表していることが分かります。
i以上のことを思いつつ、もう一度この御言葉を味わって下さい。
ローマ人への手紙
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:8 ところが神は、わたしたちがまだ罪人であった時に、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を、わたしたちに明らかにしておられである。
5:10 というのは、わたしたちが敵であった時に、御子の死を通して神に和解させられたからには、和解させられている今、彼の命の中で救われるのは、なおさらのことです.
以上
2017/3/6
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009(atmark)gmail.com