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6.すべての人は罪を犯した




ローマ3:22 すなわち神の義は、イエス・キリストの信仰を通して、信じるすべての人にもたらされました.そこには何の差別もありません.
3:23 なぜなら、すべての人は罪を犯したので、神の栄光に欠けており
3:24 価なしに,彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです.


クリスチャンなら誰もが知っている御言葉です。


そして、だれもが一度は暗記した御言葉である筈です。


しかし、だからといってこの御言葉を当然の事として通過すべきではありません。


すべての人とは、だれを指しますか?


そう、過去に存在した人々は勿論、現在生きている人たち、そして、将来に生まれて来るであろう人々をも含んでいると言うことです。


通常であれば、将来の人については、罪を犯すであろう、と未来時制で言う筈ではありませんか?


過去の人々、現在の人々はみな罪を犯した。


将来生まれてくる人々も罪を犯すであろう。または、罪を犯すに違いない。


などの言い方をするのではないでしょうか。


ところが、聖書ではそうではありません。


将来生まれて来るであろう人々をもひっくるめて、すべての人は罪を犯した、と過去時制で宣言するのです。


非論理的にして、何と大胆な発言でしょうか。


なぜ、こんなことをパウロは言うことが出来たのかと言えば、


当然、「客観的な私たち」のことを言わない訳にはいきません。


キリストは受肉の際に万物を、また万民をご自分の肉体の中に取り込まれました。そして、すべての問題解決をはかろうとされたのでした。


これこそ、誰も予想だに出来ない事柄でした。


この中には、勿論のこと、将来生まれてくる人が含まれていました。


そして、彼らの素性も全部明らかであったのです。罪を犯した、という事実を含めて。


しかし、考えてみてください。


パウロがこの手紙を書いている時点においては、わたしたちの主イエスは既に復活して天の御座に着いて居られます。


「客観的な私たち」も彼と共に生かされ、復活し、天上でこれまた御座に着いているのです。


このような時点において、パウロはすべての人は罪を犯した、と言うのです。


なぜでしょう?


それは、地上の「主観的な私たち」には信仰が必要だからです。


信仰はキリストが用意して下さっている豊かな祝福に与る条件だからです。


「さあ、みんな、主イエスを信じなさい。そして、彼を受け入れなさい。
そうすれば神様が成し遂げられた全ての豊かな祝福に与ることが出来るんだよ。」


と言ってパウロは薦めているのです。


こうして、信仰に始まり、彼は、この書簡の中で、少しづつその祝福を述べ始めるです。


神の計り知れない豊かな祝福に感謝します。アーメン!


2017/3/4
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009(atmark)gmail.com