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最初からですが、リー兄弟のライフスタディメッセージからの引用です。
リー兄弟はコロサイ書のライフスタディで、こう述べておられます。
キリストが受肉されベツレヘムでかいばおけの中に生まれた時、彼はご自身の上に人性を着られました。この人性はわたしたち並びに被造物のすべてを含みました。ですから、わたしたちが生まれる前にさえキリストはわたしたちをご自身の上に着られたのです。キリストが人の生活を通過された時、わたしたちは彼と共にそれを通過しました。さらに彼が十字架に行き、十字架につけられた時、わたしたちは彼と共に十字架につけられました。それからわたしたちは彼と共に墓の中に葬られました。事実、被造物のすべてがそこに葬られたのです。ですから、キリストの墓は万有網羅の墓でした。わたしたちはまたキリストと共に復活し、そして、昇天しました。今や、わたしたちは教会生活にあずかっている間でさえ、彼と共にもろもろの天の中に座しているのです。一方において、わたしたちは地上の教会の中にあり、他方においてわたしたちはキリストの中でもろもろの天にいるのです。もろもろの天と教会との間に大量の交通があります。光の速度にもまさる速さで動く交通です。実はそのような交通に言及するのは人の見地からのことで、神の見地からするならもろもろの天と教会とは一つです。こういうわけで教会の中にいることはもろもろの天にいることです。(コロサイ書ライフスタディM27p314)
キリストの受肉の際に彼の人性の中にわたしたちと全被造物のすべてが取り込まれた。そして、彼の地上における生活、十字架、復活、昇天、御座に座すことにまで彼と共にいる、と語っています。しかも、これと地上の教会(召会)との間に交通、つまり交流、行き来があるとまで言います。
ここに言われている、キリストの受肉から昇天において、彼の中に含まれるわたしたちのことを、私は「客観的な私たち」と呼びます。緑色文字の部分がそれです。
その中には、過去の人たち、アダムを始めとする旧約聖書の時代に生きた人たち、新約時代に入って、ペテロ、パウロなど過去歴代の全ての信者達、そして、現代に生きている全ての信者達、更には、未来において生を受け信者となる筈の人たち全てが含まれる筈です。不幸にして、選ばれない人たち(不信者)はこの中には含まれません。この「客観的な私たち」がひとまとめにされて、キリストの肉体の中に包括されたのでした。これがどのような方法においてであったかは、私は知りません。ただ、処女マリヤを通して誕生するという方法によってそうされたとしか言いようがありません。これは奥義です。
それに対して、地上に於いて生を受け、地上において、過去に生きた、また、現在生きている、そして、将来生きるであろう選びの民のことを、「主観的な私たち」と呼ぶことにします。この書き物の読者である信者は、現在に生きる「主観的な私たち」に属する存在です。
「客観的な私たち」も「主観的な私たち」もユダヤ人と異邦人で構成される選びの民なる信者たちです。選ばれない人々(不信者)はキリストの肉体の中に含まれたが、キリストと共に復活、栄光化されることはなかったということになるでしょう。
そして、この「客観的な私たち」と「主観的な私たち」の区別をはっきりとさせておかないと聖書の理解がおかしなことになってしまう危険性があります。その例を挙げます。
例1.
既に述べておりますが、例えば、ローマ人への手紙第8章30節について、
ローマ8:30 そして神はあらかじめ定めた者たちを、さらに召し、そして召した者たちを、さらに1義とし、そして義とした者たちを、さらに2栄光化されました。
この出来事はいつ起こりましたか、という質問に対して、殆どの聖書解説者、学者も含めて、人が主イエスを信じた時の事だと考えています。勿論、リー兄弟も。
しかし、この理解だと、栄光化されました、ということが説明できません。
聖書解説者はいろんな理屈を述べます。将来の栄光化は確かなことだから過去形なのだとか、天と神には時間が無いからだとか、ヘブル語の様式を用いて過去形にしたのだとか、いろいろあります。この過去形の説明に大わらわなのです。
違いますよね。これは二千年前のキリストの十字架と復活の際の出来事なのだということです。即ち、この出来事は、「客観的な私たち」における出来事なのだということに気が付けば問題は解決です。
ネットで検索したのですが、ジョン・ピーター・ランゲ、マシュー・ヘンリー、ジャミーソン・フォセット・ブラウン、ウエスレー、他にエクスポジターバイブルコメンタリー、プルピットコメンタリー、カルバンもみな失格でした。
では、我らがリー兄弟の解説です。リー兄弟も四苦八苦しておられるのがお分かりかと思います。
さらにわたしたちはパウロ自身も含めて、ひとりとして栄光を与えられていません。しかもパウロはあらゆることを過去に置きました。わたしたちは時間に従属していることを記憶しなければなりません。ある偉大な教師は、天には時計がない、なぜなら、神は永遠の神であるから、と言いました。彼は永遠の神です。彼には時がありません。いつあなたは栄光を与えられましたか。あなたは永遠の過去に予定され、召され、義とされ、また栄光を与えられました。神の目においては、また彼の観念によれば、あらゆるものが成就されました。もし栄光化が成就されていないとしたら、使徒ヨハネはどうして一千九百年前に新エルサレムを見ることが出来たでしょう。彼は夢を見ていたのではありません。彼は実際にそれを見ました(啓示21章2節)。あなたは啓示録、すなわち未来の出来事の預言で満ちている書で使われているほとんどすべての動詞が過去時制であり、万事は成就されたことを示しているに気がついたことがありますか。なぜわたしはこの事を言うのでしょう。なぜなら、この事は31節がなぜ30節に続くかを説明するからです。わたしたちの運命は保証されました。わたしたちには保険会社の必要がないのです。わたしたちの義とされること、また栄光を与えられることは保証されています。永遠の神ご自身の中に保証されています。彼と比較することの出来る保険会社は地上に一つもありません。彼ご自身が最大の保険会社です。わたしたちの救い、義とされること、また栄光を与えられることは保証されています。なぜなら彼は万事を成就されたからです。わたしたちの感覚によれば、栄光化は将来起こることですが、神の概念によれば、それはすでに起こっているのです。神においては、あらゆることに時間がないのです。わたしたちの予定、召し、義とされること、また栄光を与えられることは永遠の問題です。時間の問題ではありません。このようにわたしたちは保証されています。(ウィットネス・リー兄弟、ローマ人への手紙ライフ・スタディ、中巻、M21.)
例2.
次の例はこれです。ローマ6章6節です。
ローマ6:6わたしたちは次のことを1知っています.わたしたちの2古い人が彼と共に3十字架につけられたのは、4罪の体が5無効にされて、わたしたちがもはや、奴隷として罪に仕えることがないためです.
「わたしたちの古い人」とはいったい何であるかは「2.わたしたちの古い人」で述べておきました。
もう一度ここに載せておきます。
先ず、リー兄弟の解説から。
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フットノート6-2
わたしたちの魂の中の、天然の命を言います。古い人は、神によって創造され、罪のゆえに堕落した、わたしたちの存在そのものです。それはガラテヤ人への手紙第2章20節(ガラテヤ2:20)の「わたし」と同じです。それは魂そのものではなく、魂の命です。それは神によって絶望と勘定されたので、十字架に置かれ、キリストと共に釘づけられました。以前、わたしたちの魂は、独立した人として振る舞い、古い人をその命と人格としていました。今や古い人が十字架につけられたので、わたしたちの魂は、キリストの器官として振る舞うべきであり、わたしたちの霊の支配を受け、キリストをその命とすべきです。
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わたしたちの魂の中の、天然の命を言います。
とあるのですが、これが十字架に掛けられたのならば完全に死んでいなければなりません。しかし、それはわたしたちの中で生きています。ですから、この定義は完全に間違っています。これを読んだ人は混乱して、何が何だか分からないでしょう。
で、私は次のように古い人を定義しておきました。
わたしたちの古い人とは、キリストの受肉から十字架に付けられるまでの「客観的な私たち」のことである。
「客観的な私たち」とは、キリストの肉体の中に取り込まれたわたしたちのことです。ここに来ると、古い人が何であるかは、「客観的な私たち」の独断場です。この存在が認識出来ていなければ、決して理解することは出来ないでしょう。
例3.次は「新しい人」に関してです。
エペソ2:13-16
2:13 しかし、かつて2遠く離れていたあなたがたは、今やキリスト・イエスの中で、キリストの4血によって3近くなったのです。
2:14 なぜなら、彼ご自身は、1わたしたちの2平和であって、3両者を一つにし、そして5敵意である4隔ての中垣を取り壊し、
2:15 数々の4規定から成っている3戒めの律法を、彼の2肉体の中で1廃棄されたからです.それは、彼がご自身の6中で、二つのものを8一人の新しい人7へと5創造して、9平和をつくるためであり、
2:16 また4十字架を通して、1両者を2一つからだの中で3神に和解させるためでした.6それによって5敵意を殺してしまったのです。
リー兄弟によると 一人の新しい人 は教会(召会)であり、一つからだ も教会(召会)なのです。何をか言わんや
の話しです。
この箇所はキリストが十字架に掛けられて復活に至ろうとする過程です。まだ、教会(召会)が存在する時期ではまったくないのです。あり得ない話しです。
リー兄弟は、これらの箇所に、「二つのもの」、つまり、ユダヤ人と異邦人とかいう「両者」が出て来るので、地上の教会(召会)のことと勘違いされたのでしょう。
兎に角、これが二千年前のキリストの個人的な肉体、また、体の中の事柄だと考える認識が無かったようです。啓示の光に欠けていたのでしょう。
私が「客観的な私たち」とか「主観的な私たち」のことを考え始めましたのは、実は、この箇所においてでした。エペソ人への手紙のライフスタディM24です。
彼は、このメッセージの中で、一人の新しい人は教会(召会)であると言っておきながら、他方で新しい人を着ることを語っておられます。矛盾もいいところです。これはおかしいと思い始めました。それが1998年5月頃のことでした。
今(2017年1月)から19年ほど前のことでした。
その後、1999年9月23日に東京で責任者の集会がありましたが、その後に時間を戴いて「客観的な私たち」に関する発表をさせて貰いました。参加者は8名くらいだったと思います。劉遂兄弟、もう1人の中国語の兄弟、吉○兄弟、広○兄弟、桜○兄弟、金○兄弟など、計8名ほどでした。
タイトルは「新しい人、神の住まい、キリストの奥義」でこれら三つは信者の霊の中に存在する。しかも、これらは単なる三一の神のみならず、「客観的な私たち」なる人の成分も含まれる、というものでした。
私の発表の後の質疑応答はありませんでした。
日本の責任者である兄弟はその霊(聖霊)の中に人が含まれることが気に入らなかったのでしょう。まあ、殆ど無視されたような状態でした。
以後、地元に戻っても、兄弟姉妹たちは私を敬遠するし、態度がこれまでと全然違ってきたので集会には出づらくなり、これを潮時に、私の方から地方教会には さよなら をしました。
実は、過去の手紙をあれこれあさっておりますと、発表会の三年後の2002年になって、今になって思えば、止しとけばいいのに、私が公式の見解が聞きたいとの吉○兄弟宛の手紙がありまして、それに対する吉○兄弟の返事の手紙がありました。以下がそれです。
東兄弟様 02/3/29
あなた様のお手紙について、失礼ですが、お返事を差し上げることは出来ません。その理由はとても簡単です。@あなたの真理の解説が正しいと言えば、あなたは喜ぶでしょうが、わたしの中の聖霊に責められますし、@あなたの解説が間違いであると言えば、あなたは怒るからです。それゆえ、返事をしない方がよいと思いました。これからも返事をしません。わたしたちはニー兄弟、リー兄弟のものから大変
命の供給を受けますし、光も与えられます。しかし、あなたのものには少しも命の供給がありませんし、真の光もありません。
しかし、要するに、あの人たちは私に対して無反応作戦を決め込んで、私はテキトーいなされ、あしらわれ、手玉に取られて、一人芝居をやっていたという訳です。
この手紙を読むと、何だか私が私利私欲のためにやったみたいですが、そうじゃありません。
私の提案を受け付けないで損失を被るのはこれを受け入れない人たちなんですがね。
そのことがお気づきにならないとは悲しい人たちです。
こうして、地方教会とは、ほぼ完全に縁は無くなったのですが、最近、ある方が久々に電話をくださってそれに関する話しをしたのが契機で、改めてこのようなホームページを立ち上げてみた次第です。
聖書の真理は地方教会だけではなく、すべての信者にっとって無縁のものではありませんから、そういう人たちのためにもと思って、もう一度書いてみようと思い立った次第です。
サイト名が「聖書真理ノート2」となっているのは、実は2000年代に「聖書真理ノート」を立ち上げていましたが、プロバイダーを変更したのを契機に止めていたので、今回が二度目という意味です。
1月24日の夕刻に、突然メールが入って、このホームページを見たと言う人が出て来ました。
その人は、以前、地元にいた兄弟で、私が「客観的な私たち」のことを語って多少の理解を示した人でした。
あれから、20年、彼は37歳の大人に成長した兄弟です。
「客観的な私たち」のことを覚えてくれていたんですね。私はびっくりすると同時に嬉しくなりました。
それに比べて、年配の人たちは哀れですね。頭が固定化してしまって、新しい概念にはついて来ることが出来ないようです。でも、これは特別新しい概念でもないと思うのですがね。
3、4ヶ月前のことだったと思いますが、ある兄弟から電話がありました。その兄弟がこんなことを言いました。
「ロン兄弟が東兄弟のことを『論外だ』と言っておられたそうですよ。」
ははあ、例の発表のことだなと私は思いました。恐らく、上に挙げた「新しい人、神の住まい、キリストの奥義」のことでしょう。
つまり、これが全然間違っている、ということに違いありません。
私は、この人たちはまだ分からないのか、と情けない気持ちになりましたね。
しかし、もし、これが事実ならば、私の発表の原稿をよくも永い間取っておいてくれたものだと感謝の気持ちも湧いてきます。
尤も、これを翻訳した人がどんな訳をしたか分かりませんけれど。まあ、後で読み返しまして、今ほど光が強くなかったですから、記述にも問題があったかも知れません。
本質に於いて間違ってはいないと思います。
あるいは、話しだけだったかも。
「以前、東兄弟というのがいましてね。彼はその霊の中に人の成分を含むんだ、と言い張っていました。あなたはどう思いますか?」
ロン兄弟「あり得な〜い!論外だ!」
まあ、こんな調子ですかね。
例の若い兄弟のほうが固定観念に縛られないで、よほど素晴らしいと思います。それにしても、残念なことです。
話しが随分と逸れてしまいましたけれど、「客観的な私たち」と「主観的な私たち」の区別をはっきりすることは重要なことだということです。
これまでお話ししたように、聖書の理解がとんでもないことにならないためです。
つらつら思いますに、リー兄弟や他の反対者たちは「客観的な私たち」についての認識が如何に曖昧であったかということでしょう。
エペソ2:5-6、わたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました.
ということは、客観的な事実として彼らは認めるのです。
ところが、リー兄弟は2:14-16の一人の新しい人の箇所に於いては、この新しい人は教会(召会)である、16節の
一つからだ も教会(召会)であると言われるのです。
この箇所に関しては、「客観的な私たち」の認識が存在しません。完全に忘れ去られてしまっているのです。
なぜか、と私は考えました。そして、至った答が、リー兄弟の「客観的な私たち」に関する認識が極めて曖昧模糊とした、幻想的なぼ〜〜っとしたものであったならば、
あのような解釈があるのかもしれないのかなと思いました。
と言いますのが、最近、1998年頃(発表会の前のことですが)に戴いた吉○兄弟の手紙を読んでいまして、この件についてかなり頑固に反対しておられるんですね。
つまり、三一の神の中には絶対に人の成分があってはならないというものです。そこで彼はこう言われます、
しかし、聖霊が信者を含むという言い方は三一ではなく○○億一とさえなってしまいます。・・・エペソ2:6「キリスト・イエスの中でわたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました。」これは二千年前キリスト・イエスの中で成就された客観的な事実のことです。わたしたちはこの事実を今、霊の中で主観的に経験しますが、「聖霊が信者を含む」となりますと三一の神に変化が起こり、三一の神がなくなったことになります。三一の神は永遠から永遠まで永遠に三一の神です。
三一はあくまでも三一であって絶対に犯すべからず、というものです。この方はある種の固定観念にがんじがらめに束縛されておられるようです。
この文章の中にある「客観的な事実」ですが、これがどうもくせ者のようです。
これは彼らにとって、事実ではあるけれども、何か非現実的な事象とでも言いましょうか。そのような曖昧なものとしてしか認識できていないのではないかと思われます。
彼とは「客観的な私たち」の件について何度か手紙でやり取りをしました。
こういうやり取りがあって、私から依頼の発表会でしたので、吉○兄弟としては相当迷惑だったのでしょう。私としては今となってみると、少々申し訳なかったかなという気が致します。
それから、1999年の発表会の後に手紙をくださった金兄弟はこう言われます。
復活の後昇天の際、「客観的な私たち」が復活・昇天のキリストと共にあったという聖書の解釈について、その霊(手順を経て究極的に完成された3・1の神)が信者に与えられるときその中に含んであるという主張はあんまりに人間的な解釈に聞こえます。
その霊の中に「客観的な私たち」が含まれることは、反対者にとってはあまりにも奇異なことであり、突拍子も無いことのようです。
しかし、受肉の時から十字架と復活を経過し、昇天して御座に至るまで、すべての過程で結合されていながら、
神がその霊として地上に降られるにあたり、「客観的な私たち」に向かって、
「あなた方は御座に座しているか、天国で散歩でもしていなさい。後はわたしたち三一だけで仕事をしてくるから。」
とでも言って三一の神だけが地上に来られると言うのでしょうか。これは甚だしい矛盾であり、論理の破綻ではありませんか。
例4.全豊満に関して
コロサイ1:19-20
1:19 なぜなら、御子の中に、1全2豊満は住むことを喜ばれ、
1:20 1彼を通して2万物を、すなわち、1彼を通して、地にあるもの5天にあるものを3ご自身に和解させ、彼の十字架の血を通して、4平和をつくることを喜ばれたからです。
1:21 かつてあなたがたは神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの2思いの中で1敵であったのですが、
1:22 今や1彼は、ご自身の肉の体において、死を通して和解させてくださいました.それは、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、彼の御前にささげるためでした.
19 o=ti e]n au]tw#j eu]do;khsen pa#n to' plh;rwma katoikh#sai
20 kai' di ] au]tou# a]pokatalla;xai ta' pa;nta ei]v au]to;n ei]rhnopoih;sav dia' tou# ai=matov tou# staurou# au]tou# di ] au]tou# ei/te ta' e]pi' th#v gh#v ei/te ta' e]n toi#v ou]ranoi#v
21 Kai' u[ma#v pote o/ntav a]phllotriwme;nouv kai' e]cyrou'v th#j dianoi;aj e]n
toi# v e/rgoiv toi#v ponhroi#v nuni; de; a]pokath;llaxen
22 e]n tw#j sw;mati th#v sarko'v au]tou# dia' tou# yana;tou parasth#sai u[ma#v a[gi;ouv kai' a]mw;mouv kai' a]negklh;touv katenw;pion au]tou#
20節の「万物」は「客観的万物」と呼ぶべきでしょう。なぜなら、ご自身に和解させられるものは全てご自身の肉体の中に取り込まれていなければならないからです。
そして、和解させられたこの万物が復活において全豊満となりました。
リー兄弟は、全豊満は 表現された神ご自身です、と言われます。(コロサイ書ライフスタディM10 一切の豊満p118)
これは間違いです。全豊満は表現された神ご自身ではありません。
全豊満は万物との和解と関連付けて語られなければなりません。文脈から全豊満とは御子キリストへと和解させられ平和を実現された万物でなければなりません。
リー兄弟は万物との関係について、
この豊満は御子の中に住むことを、また万物を彼の表現のためにご自身に和解させることをよしとされました、
と言われます。(同上、彼のすべての豊富な存在の中の神の表現p119)
リー兄弟の万物との関連が述べられているのは、私があちこち読んだ限り、上の、万物を彼の表現のためにご自身に和解させることをよしとされました、だけです。万物のことは申し訳程度に語られています。
そして、万物は地にあるもの天にあるものすべてです。これは宇宙的に広大です。この宇宙大の万物が御子キリストの肉体の中に取り込まれていたのです。だれがこんなことを信じるでしょうか。信者達の認識が曖昧になるのは無理もありません。
21節に、
かつてあなたがたは神から離れていて、
とありますが、ギリシャ語を見て下さい。
Kai'
という言葉があります。これは そして、という意味です。
ところが、[回復訳]にはこれに相当する言葉がありません。[回復訳]の英語版にはあります。日本語訳にこれがないのは訳し忘れかも知れません。
実は、この 「そして」 は前の節の続きであることを示す点で重要です。
つまり、「あなた方」が万物の一部であることを意味しているのです。
更に、和解させられることによって、この「あなた方」も全豊満の中に含まれるようになりました。
ですから、この箇所はこのようになるでしょう。
1:21 かつてあなたがたもまた神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの2思いの中で1敵であったのですが、
あなた方もまた、他の万物と同じように神の御前で問題があったのだと言うのです。だから、アンダーラインのように訳すのが適当でしょう。
21節は「客観的な私たち」の古い人の時代の様子が描かれているのです。「主観的な私たち」即ち、地上に居るわたしたちの様子だと思われる方が多いと思いますが、ここはそうではなく、「客観的な私たち」のかつての様子を記述しているのです。
このように、19節から22節までは繋がっているのですが、リー兄弟のメッセージにはそのような繋がりは全くありません。(同上、p109)
「客観的な私たち」とか、ここにあるように、客観的な存在として述べられている万物に関する明確な認識がなければ、パウロが語りたいことを正確に把握することは困難、否不可能であることをこの箇所は示しているように私は思います。
そして、これらの節は、実はあの幕屋の至聖所の成就完成を述べていることは03万物がキリストへと和解されて全豊満となり、・・・で述べております。このことがヘブル書の真の幕屋へと繋がっていくのです。
かなり長くなりましたが、「客観的な私たち」の認識の必要性について述べさせていただきました。
以上
| 受肉 |
人間生活 |
十字架 |
復活 |
昇天 |
その霊 |
キリストは「客観的な私たち」を含む万物をご自身の肉体の中に取り込まれた。(出エ36:35)
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彼の十字架において「客観的な私たち」を含む万物もキリストと共に死んだ。(ローマ6:6,マタイ27:51) |
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「客観的な私たち」を含む万物はキリストの中へと和解され、「全豊満」という名で、彼の中に住む。(コロサイ1:19-20)
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キリストと共に御座に座す。(エペソ2:6) |
その霊が「主観的な私たち」に分与される。その中には全豊満が含まれる。
全豊満とは「客観的な私たち」を含む万物がキリストへと和解された結果である。(コロサイ.1:19-20) |
<------- 私たちの古い人(ローマ6:6) ------ >
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<--- 一人の新しい人(エペソ2:15) ----------------------- |
2017/02/10
東 信男(Higashi Nobuo)
ftmp2009(atmark)@gmail.com
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