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2:13しかし、かつて遠く離れていたあなたがたは、今やキリスト・イエスの中で、キリストの血によって近くなったのです。
2:14なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、
2:15数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、
2:16また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです。
2:17そして彼は来られて、遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました.
2:18それは、わたしたち両者がキリストを通して、一つ霊の中で、父へと近づくことができるためです。
エペソ人への手紙2章13-18節の御言葉を上に挙げておきました。15節に「一人の新しい人」が存在します。この一人の新しい人について考えてみたいと思います。13節から16節までは、キリストの十字架と復活の過程における出来事が記述されています。13節では「遠く離れていたあなたがた」即ち、異邦人のことが語られています。そして、彼らはキリスト・イエスの中で、彼の血によって近い者とされます。そして、以前からキリストの近くに居たユダヤ人たちと遠くから近づけられたわたしたちが一つにされます。(14節)
2:14 なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、
14節と15節を次のように書き換えます。どこが違うかよく見て下さい。ギリシャ語原文を下に挙げておきます。
2:14 なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であるからであって、彼は両者を一つにし、そして彼の肉体の中にある敵意である隔ての中垣を取り壊し、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、廃棄されました.こうして、彼はご自身の中にある二つのものから一人の新しい人を創造して、平和をつくり、
14 Au]to'v ga;r e]stin h[ ei]rh;nh h[mw#n o[ poih;sav ta' a]mfo;tera e`n
kai' to' meso;toicon tou# fragmou# lu;sav th;n e/cyran e]n th#j sarki;
au]tou#
15 to'n no;mon tw#n e]ntolw#n e]n do;gmasin katargh;sav i=na tou'v du;o
kti;shj e]n e[au]tw#j ei]v e=na kaino'n a/nyrwpon poiw#n ei]rh;nhn
彼の肉体の中にある敵意(th;n e/cyran e]n th#j sarki; au]tou, the enmity in His flesh): 隔ての中垣である数々の規定から成っている戒めの律法は、キリストの肉体の中に取り込まれていました。そんなことがあるものか、と仰る方もおいででしょうが、彼の中に取り込まれていたからこそ、キリストは十字架の死によってそれらを廃棄することがおできになったのです。こうして、キリストは、14節から15節にかけて、彼の肉体の中にある敵意であり、ユダヤ人と異邦人とを隔てる中垣である、即ち数々の規定から成っている戒めの律法、つまり、儀式律法と呼ばれるものを、取り壊し、廃棄されたのでした。取り壊し、とか、廃棄した、とかいう言葉から、わたしたちは十字架をイメージしない訳には行きません。その結果、キリストの復活において、「一人の新しい人」と呼ばれる新しい存在が出現し、両者の間の平和が実現したのでした。以上は、キリストの十字架と復活の中での出来事でした。
もう一つ、神と両者との和解が必要でした。それが16節で述べられています。
2:16 また4十字架を通して、1両者を2一つからだの中で3神に和解させるためでした.6それによって5敵意を殺してしまったのです。
これを以下のように書き直します。ギリシャ語原文はその下です。
2:16 一つ体の中にある両者を、その中にある敵意を十字架を通して殺すことにより、神に和解させたのでした。
16 kai' a]pokatalla;xhj tou'v a]mfote;rouv e]n e[ni' sw;mati tw#j yew#j dia'
tou# staurou# a]poktei;nav th'n e/cyran e]n au]tw#j
一つからだの中にある両者を(tou'v a]mfote;rouv e]n e[ni' sw;mati, both in one body): これはキリストご自身の肉体の中にある両者です。彼の中にいる両者、ユダヤ人と異邦人、そう、「客観的な私たち」を神に和解させるために、その体の中にある敵意、これは文字通りの敵意であって、神への敵意を指すと思われます。この一つからだのことをリー兄弟は教会(召会)だと言われます。その箇所を引用します。
(引用始め)
二 一つ体の中で
十六節でユダヤ人と異邦人が一つ体の中で和解させられたと言っています。この一つ体、教会は(一章二十に節−二十三節)、前節の一人の新しい人です。ユダヤ人と異邦人との両方が十字架を通して神へと和解させられるのはこの体の中においてです。(引用終り)(エペソ人への手紙ライフスタディM26、p312)
彼は、一人の新しい人は教会(召会)である、そして、一つ体も教会(召会)と言われるのですが、場違いもいいとこです。この一つ体は、これから十字架に付けられなければならないのですよ。彼らの中にある敵意を殺さなければならないのです。それなのにこれが教会(召会)ですって?地上の兄弟姉妹たちがまとめて十字架上で殺害されることになりますよ。とんでもないことです。本質においては、確かに地上の教会(召会)と同じです。ですから、強いて言うなら、この新しい人のことを 教会(召会)の原型あるいは種である と言うべきでしょう。「客観的な私たち」と「主観的な私たち」の区別が出来ていない人たちはこのようなとんちんかんで恐るべき理屈を持ち出してくるのです。恐ろしい事です。
その中にある敵意(th'n e/cyran e]n au]tw#j , the enmity by it): キリストの体(個人的な肉体)の中にある敵意という意味です。それを回復訳では、それによって(by
it)、と訳されていますが、十字架によって、と言う意味のようです。フットノートには、「あるいは彼の中で」、とあるだけです。「それによって」の「それ」が何を指すかは書いてありません。十字架を指すのは間違いないようです。この節には既に、十字架を通して、という言葉がありますから、同じ節内に二つも十字架を入れ込むのは不自然であり、明らかな間違いです。兎に角、この敵意を、十字架を通して殺すことにより、神との和解が成立しました。この敵意を殺すのは当人達を殺してしまえば自動的に彼らの中にある敵意は完全消滅してしまうわけです。
こうして、完全な一人の新しい人が出現しました。勿論、これも、キリストご自身の個人的な体の中で起こった出来事でした。この一人の新しい人はキリストの復活を通して出現した極めてユニークな存在でした。その一人の新しい人の構成要素は、前代未聞!キリストとユダヤ人異邦人即ち「客観的な私たち」です。ここでは述べられては居ませんが、その他の諸々の生き物である万物が含まれる筈です。一人の新しい人とは、キリストと「客観的な私たち」を含む万物との結合の完成であると言えます。これはまさに新創造でした。
2:17 そして彼は1来られて、2遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また3近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました.
2:18 それは、わたしたち両者が1キリストを通して、3一つ霊の中で、4父へと2近づくことができるためです。
エペソ人への手紙2章13節から16節までは、キリストの体内における彼と「客観的な私たち」との結合の動きの描写です。17節からは、復活の主によるところの福音の宣べ伝えです。遠い者たちとは異邦人、近い者たちとはユダヤ人ですね。この節のユダヤ人と異邦人は地上に生きる者たちですから、「主観的な私たち」の物語です。これが、13節-16節「客観的な私たち」の物語との大きな違いです。18節になると、これは教会生活と言えるでしょう。ここでは、ユダヤ人と異邦人とが一緒に集会している光景が目に浮かんできます。そして、彼らが一つ霊によって、両者が御父にお会いすることが出来ると言います。なぜ、それができるのですか。一つ霊の中にはそれを可能とする要素が含まれているからではありませんか。即ち16節に神との和解が含まれているからではないでしょうか。まさに、その通りです。一つ霊の「一」は、一人の新しい人の「一」と同じものと考えることが出来ますよね。キリストの中でユダヤ人と異邦人とが一つとされて一人の新しい人が出現した。まさに、その存在が一つ霊となったと理解出来ると思います。即ち、一人の新しい人が一つ霊となったということです。一つ霊とはその霊、即ち聖霊の別名です。ということは、一つ霊の中に、即ち、その霊の中にユダヤ人異邦人なる「客観的な私たち」がちゃんとインプットされているということになりますね。そうです。その霊の中にユダヤ人異邦人という人の要素が取り込まれてしまっているのです。これは驚いた!聖霊の中に人の成分があってもよいのですか。神を冒とくすることにならないんでしょうか。なりません。これが聖書の教えなんです。実際、聖霊の中に人(信者)が含まれるとはけしからん!と私に対して息巻いた反対者の方が居ました。そのお言葉はパウロに投げ掛けて下さい。これが聖書の教えなのです。異端でも何でもありません。
以上
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