HOME 1. 一人の新しい人が一つ霊となった
エペソ2:15-16の解釈

1.はじめに

 1-1 まず、あなたに質問です。

ローマ8:30 そして神はあらかじめ定めた者たちを、さらに召し、そして召した者たちを、さらに1義とし、そして義とした者たちを、さらに2栄光化されました。

これは何時(いつ)の出来事でしょうか? あなたが主イエスを信じられた時の事でしょうか。もしそうだとすると、「栄光化されました。」はどう解釈するのでしょうか。あなたは栄光化されていますか。いませんよね。これとよく似た箇所があります。たとえば、エペソ人への手紙2章4-6節です
エペソ2:4 しかし、あわれみに富んでおられる神は、わたしたちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに、
2:5 わたしたちが違犯の中で死んでいた時、わたしたちをキリストと共に生かし(あなたがたが救われたのは,恵みによるのです)、
2:6 キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました.


これは何時の出来事でしょうか? これを、私たちが主イエスを信じた時の出来事であると言う人は居ないでしょう。
キリストと共に生かしとか、キリスト・イエスの中で彼と共に復活させ等と言われるように、これはキリスト・イエスの十字架と復活の時の出来事に違いありません。同様にローマ8:30の栄光化された者たちも、今から2千年前の出来事ということになります。これが上の質問に対する答です。

1-2 キリストの肉体の中に私たちが居た?

上の議論によると、既に二千年前に、わたしたちがキリストと共に存在していたのか、という新たな疑問が生じて来ます。これは一体どういうことでしょうか。はい、その通りです。これが、聖書の証言です。聖書はミステリーに満ちているのです。次の主の言葉を思い出して下さい。
ヨハネ12:32 わたしは、地から1上げられるなら、すべての人をわたし自身に引き寄せよう」。
12:33 イエスはこう言って、ご自分がどのような死に方で死のうとしているかを示されたのである。


主イエスは十字架の際に、すべての人をご自身へと引き寄せる、と言われました。この、主ご自身へと引き寄せられたすべての人、がローマ人への手紙第8章30節やエペソ人への手紙2章4-6節の中のわたしたちではないか、と考えたら如何がでしょうか。そうすると、辻褄が合うように思うのですが。私はそのように理解しております。

このわたしたちは、二千年前に、十字架上でキリストご自身の中へと引き寄せられた者たちであった、ということになります。では、その「すべての人」はどこから引き寄せられたのですか? 空中からですか?違います!当時、わたしたちは実はキリストご自身の肉体の中にいたのです。幕屋のたれ幕をご覧下さい。聖所と至聖所を隔てるその垂れ幕にはケルビムが刺繍されていました。(出エ36:35)たれ幕はキリストの肉体を象徴します(ヘブル10:20)。
ヘブル10:20 それは、彼がわたしたちのために、彼の肉体である2幕を通して、1新しい生きた道を開いてくださったからです.
【口語訳】
出エ36:35 また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出した。

そして、リー兄弟によると、ケルビムは全被造物を象徴します(エペソLSM24 p290)。
リー兄弟のメッセージを引用します。
(引用始め)
        キリストの死はいっさいの創造を包含する

キリストが肉体をもって十字架につけられた時、旧創造全体がその中に包含されました。なぜなら、創造のいっさいは彼の肉体に関係があったからです。ヘブル書第十章によれば、キリストの肉体は宮の中のたれ幕によって予表されましたが、その幕の上には生き物を象徴するケルビムが縫い取りされていたのです。こういうわけでキリストが十字架につけられた時、全被造物が彼と共にそこで釘づけにされたのです。なおまた、宮の中の幕が裂かれた時、ケルビムも裂かれました。これはキリストの肉体が十字架上に釘づけられた時、全被造物が釘づけられたことを象徴しています。これは十字架の聖書的理解です。

(引用おわり)
垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出した。とあるように、たれ幕を作るときケルビムを刺繍することによって、たれ幕が完成されました。このことは、キリストの受肉の際に万物がキリストの肉体の中に取り込まれたことを意味しています。
じゃあ、ヨハネ12章の、彼が上げられるときにすべての人を引き寄せた、とはどういうことかと言いますと、わたしたちがキリストの肉体の中に取り込まれた時は罪人としてでした。エペソ1:2-3やコロサイ1;21はキリストの肉体の中のユダヤ人異邦人の罪人としての様子を描いています。地上に居る主イエスを信じる前の私たちの姿とそっくりですが、そうではありません。そのキリストの肉体の中に取り込まれて違反の中で死んでいた(2:5)わたしたちが、キリストと共なる死(エペソ2:16)を通して、キリストご自身の復活の中へと引き寄せられたことを意味するものと、私は理解しております。

1-3、「客観的な私たち」と「主観的な私たち」

このキリストの受肉の際にご自身の肉体の中に取り込まれたわたしたちのことを、私は「客観的な私たち」と呼びます。そして、地上に生を受けたわたしたちのことを、「主観的な私たち」と呼びます。この文章を読んで居られるあなたは「主観的な私たち」のお仲間ということになります。「客観的な私たち」は今や既に完成されています。栄光化され、御座についてさえ居るからです。このようなわたしたちが存在しているのです。彼らはあくまでも、私たちなのです。この「客観的な私たち」が到達した地位と身分すべてはその霊を通してすべて地上に居るわたしたち、即ち「主観的な私たち」のものとなります。
聖書を読む時に、「客観的な私たち」と「主観的な私たち」の区別をしておく必要があります。そうしないと、新約聖書を正しく理解することはできないと私は申しておきます。

2.一人の新しい人


2:13しかし、かつて遠く離れていたあなたがたは、今やキリスト・イエスの中で、キリストの血によって近くなったのです。
2:14なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、
2:15数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、
2:16また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです。
2:17そして彼は来られて、遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました.
2:18それは、わたしたち両者がキリストを通して、一つ霊の中で、父へと近づくことができるためです。


エペソ人への手紙2章13-18節の御言葉を上に挙げておきました。15節に「一人の新しい人」が存在します。この一人の新しい人について考えてみたいと思います。13節から16節までは、キリストの十字架と復活の過程における出来事が記述されています。13節では「遠く離れていたあなたがた」即ち、異邦人のことが語られています。そして、彼らはキリスト・イエスの中で、彼の血によって近い者とされます。そして、以前からキリストの近くに居たユダヤ人たちと遠くから近づけられたわたしたちが一つにされます。(14節)
2:14 なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、


14節と15節を次のように書き換えます。どこが違うかよく見て下さい。ギリシャ語原文を下に挙げておきます。

2:14 なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であるからであって、彼は両者を一つにし、そして彼の肉体の中にある敵意である隔ての中垣を取り壊し
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、廃棄されました.こうして、彼は
ご自身の中にある二つのものから一人の新しい人を創造して、平和をつくり、
14 Au]to'v ga;r e]stin h[ ei]rh;nh h[mw#n o[ poih;sav ta' a]mfo;tera e`n kai' to' meso;toicon tou# fragmou# lu;sav th;n e/cyran e]n th#j sarki; au]tou#
15 to'n no;mon tw#n e]ntolw#n e]n do;gmasin katargh;sav i=na tou'v du;o kti;shj e]n e[au]tw#j ei]v e=na kaino'n a/nyrwpon poiw#n ei]rh;nhn

彼の肉体の中にある敵意(
th;n e/cyran e]n th#j sarki; au]tou, the enmity in His flesh):
 隔ての中垣である数々の規定から成っている戒めの律法は、キリストの肉体の中に取り込まれていました。そんなことがあるものか、と仰る方もおいででしょうが、彼の中に取り込まれていたからこそ、キリストは十字架の死によってそれらを廃棄することがおできになったのです。こうして、キリストは、14節から15節にかけて、彼の肉体の中にある敵意であり、ユダヤ人と異邦人とを隔てる中垣である、即ち数々の規定から成っている戒めの律法、つまり、儀式律法と呼ばれるものを、取り壊し、廃棄されたのでした。取り壊し、とか、廃棄した、とかいう言葉から、わたしたちは十字架をイメージしない訳には行きません。その結果、キリストの復活において、「一人の新しい人」と呼ばれる新しい存在が出現し、両者の間の平和が実現したのでした。以上は、キリストの十字架と復活の中での出来事でした。
もう一つ、神と両者との和解が必要でした。それが16節で述べられています。
2:16 また4十字架を通して、1両者を2一つからだの中で3神に和解させるためでした.6それによって5敵意を殺してしまったのです。

これを以下のように書き直します。ギリシャ語原文はその下です。
2:16 一つ体の中にある両者を、その中にある敵意を十字架を通して殺すことにより、神に和解させたのでした。
16
kai' a]pokatalla;xhj tou'v a]mfote;rouv e]n e[ni' sw;mati tw#j yew#j dia' tou# staurou# a]poktei;nav th'n e/cyran e]n au]tw#j

一つからだの中にある両者を
tou'v a]mfote;rouv e]n e[ni' sw;mati, both in one body) これはキリストご自身の肉体の中にある両者です。彼の中にいる両者、ユダヤ人と異邦人、そう、「客観的な私たち」を神に和解させるために、その体の中にある敵意、これは文字通りの敵意であって、神への敵意を指すと思われます。この一つからだのことをリー兄弟は教会(召会)だと言われます。その箇所を引用します。
(引用始め)
二 一つ体の中で

十六節でユダヤ人と異邦人が一つ体の中で和解させられたと言っています。この一つ体、教会は(一章二十に節−二十三節)、前節の一人の新しい人です。ユダヤ人と異邦人との両方が十字架を通して神へと和解させられるのはこの体の中においてです。(引用終り)(エペソ人への手紙ライフスタディM26、p312)


彼は、一人の新しい人は教会(召会)である、そして、一つ体も教会(召会)と言われるのですが、場違いもいいとこです。この一つ体は、これから十字架に付けられなければならないのですよ。彼らの中にある敵意を殺さなければならないのです。それなのにこれが教会(召会)ですって?地上の兄弟姉妹たちがまとめて十字架上で殺害されることになりますよ。とんでもないことです。本質においては、確かに地上の教会(召会)と同じです。ですから、強いて言うなら、この新しい人のことを 教会(召会)の原型あるいは種である と言うべきでしょう。「客観的な私たち」と「主観的な私たち」の区別が出来ていない人たちはこのようなとんちんかんで恐るべき理屈を持ち出してくるのです。恐ろしい事です。

その中にある敵意(th'n e/cyran e]n au]tw#j , the enmity by it): キリストの体(個人的な肉体)の中にある敵意という意味です。それを回復訳では、それによって(by it)、と訳されていますが、十字架によって、と言う意味のようです。フットノートには、「あるいは彼の中で」、とあるだけです。「それによって」の「それ」が何を指すかは書いてありません。十字架を指すのは間違いないようです。この節には既に、十字架を通して、という言葉がありますから、同じ節内に二つも十字架を入れ込むのは不自然であり、明らかな間違いです。兎に角、この敵意を、十字架を通して殺すことにより、神との和解が成立しました。この敵意を殺すのは当人達を殺してしまえば自動的に彼らの中にある敵意は完全消滅してしまうわけです。
こうして、完全な一人の新しい人が出現しました。勿論、これも、キリストご自身の個人的な体の中で起こった出来事でした。この一人の新しい人はキリストの復活を通して出現した極めてユニークな存在でした。その一人の新しい人の構成要素は、前代未聞!キリストとユダヤ人異邦人即ち「客観的な私たち」です。ここでは述べられては居ませんが、その他の諸々の生き物である万物が含まれる筈です。一人の新しい人とは、キリストと「客観的な私たち」を含む万物との結合の完成であると言えます。これはまさに新創造でした。

3.一つ霊


2:17 そして彼は1来られて、2遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また3近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました.
2:18 それは、わたしたち両者が1キリストを通して、3一つ霊の中で、4父へと2近づくことができるためです。


エペソ人への手紙2章13節から16節までは、キリストの体内における彼と「客観的な私たち」との結合の動きの描写です。17節からは、復活の主によるところの福音の宣べ伝えです。遠い者たちとは異邦人、近い者たちとはユダヤ人ですね。この節のユダヤ人と異邦人は地上に生きる者たちですから、「主観的な私たち」の物語です。これが、13節-16節「客観的な私たち」の物語との大きな違いです。18節になると、これは教会生活と言えるでしょう。ここでは、ユダヤ人と異邦人とが一緒に集会している光景が目に浮かんできます。そして、彼らが一つ霊によって、両者が御父にお会いすることが出来ると言います。なぜ、それができるのですか。一つ霊の中にはそれを可能とする要素が含まれているからではありませんか。即ち16節に神との和解が含まれているからではないでしょうか。まさに、その通りです。一つ霊の「一」は、一人の新しい人の「一」と同じものと考えることが出来ますよね。キリストの中でユダヤ人と異邦人とが一つとされて一人の新しい人が出現した。まさに、その存在が一つ霊となったと理解出来ると思います。即ち、一人の新しい人が一つ霊となったということです。一つ霊とはその霊、即ち聖霊の別名です。ということは、一つ霊の中に、即ち、その霊の中にユダヤ人異邦人なる「客観的な私たち」がちゃんとインプットされているということになりますね。そうです。その霊の中にユダヤ人異邦人という人の要素が取り込まれてしまっているのです。これは驚いた!聖霊の中に人の成分があってもよいのですか。神を冒とくすることにならないんでしょうか。なりません。これが聖書の教えなんです。実際、聖霊の中に人(信者)が含まれるとはけしからん!と私に対して息巻いた反対者の方が居ました。そのお言葉はパウロに投げ掛けて下さい。これが聖書の教えなのです。異端でも何でもありません。

以上

その霊に関する
新しい理解と従来の理解
  受肉 十字架、復活、昇天 その霊 コメント
新しい理解 言葉は肉体となられたが、その際に「客観的な私たち」を含む万物をご自身の肉体の中に取り込まれた。(ヨハネ1:14、出エ36:35) エペソ2:5 わたしたちが違犯の中で死んでいた時、わたしたちを3キリストと2共に1生かし(あなたがたが5救われたのは,4恵みによるのです)、
2:6 5キリスト・イエスの中で、わたしたちを2彼と共に1復活させ、彼と共に4天上で3座らせてくださいました.

手順を経て究極的に完成された三一の神ご自身
プラス全豊満である

全豊満とはキリストの血によってご自身へと和解されたところの「客観的な私たち」を含む万物である。(コロサイ1:19-22)

Iコリント15:45b 最後のアダムは、命を与える1霊と成ったのです。

コロサイ1:19なぜなら、御子の中に、12豊満は住むことを喜ばれ、1:201彼を通して2万物を、すなわち、1彼を通して、地にあるもの5天にあるものを3ご自身に和解させ、彼の十字架の血を通して、4平和をつくることを喜ばれたからです。1:21かつてあなたがたは神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの2思いの中で1敵であったのですが、1:22今や1彼は、ご自身の肉の体において、死を通して和解させてくださいました.それは、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、彼の御前にささげるためでした.
キリストと共に生かされ共に復活させられ、彼と共に天上で座らせられた如くにキリストとわたしたち(客観的な私たち)が固く結合された中で、このようなわたしたちがその霊の中に含まれることは極く自然なことである。
従来の理解 言葉は肉体となってわたしたちの間に幕屋を張られた。(ヨハネ1:14)










手順を経て究極的に完成された三一の神ご自身である。
(その霊は三一の神だけで構成される)

Iコリント15:45b 最後のアダムは、命を与える1霊と成ったのです。

<---断絶の壁
その霊の中には人(客観的な私たち)の成分が含まれることはあり得ない。
したがって、左の図に於いて昇天とその霊の間に断絶がある。
(この表追加 2017/2/23)


(この図追加2018/04/05)

2018/04/19 修正
2017/01/05
東 信男(Higashi Nobuo)
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