Amber Box
FANFICTION

カーディガン

ミルキーブルーの空の下、桜の樹の新緑が萌えている。最初は赤みを帯びた芽が、しゅるしゅると広がり、温かな日を浴びて、つるりと明るい緑色に光っていた。窓を開けて、ベランダに出ると、風はつめたい。手のひらを肌に当てると、頬もひんやりとしていた。遠くを見ればコーヒーに混ざるミルクのようにうねる雲。そして、ヨージが階下を見下ろすと、ちょうど階段を降りて飛び出したケンが見えた。後ろ頭で、髪が跳ねている。きっと鏡は正面からしか見ないタイプだ。そもそも鏡は見ないのかもしれない。おー、と力の抜けた声をかけると、くるりとケンが振り向いた。見上げてきながら、おー!と声と一緒に拳をつきあげてくる。羽織ったブルーのパーカーが、春の気配によく似合っている。身だしなみはさておき、季節はしっかり把握されている。寝癖、ついてるぞ。上からそんなとこ見てるのか。見えたんだからしょうがないだろ。ぽん、ぽんと会話してから、ケンは、ぐしぐしと自分の頭を撫でた。ひょんと髪は跳ねる。店でなおしてやるよ、とヨージが手を振ると、頼んだとケンの声が拡がった。しゅるしゅると伸びる芽のように伸びやかな声。あらゆるものに春を感じながら、ヨージは上着を羽織る必要性を考えるのだった。

magnolia

坂道を登る。配達先は車では入りにくい細い道の先にある。対向車が来たときに、四苦八苦した経験から、断りを言って、公共施設の駐車場に停めるようにしていた。花材を抱え、足取り軽くすすむ道は、昨夜の雨を吸って、黒く光っている。そこに、ぼてり、ぼたりと赤紫色の木蓮の花弁が散っていた。水をすくう形にした手のひらのような曲線が、しなり、よじれ、ケンと一緒に目的地に向かっていた。それを、踏む。じゅぐりと水気を含んだ感触かスニーカーの底から伝わってくる。じゅぐじゅぐと踏みしめたり、踏まないようにステップを踏んでみたり。木蓮の花弁はケンの足跡であり、過ぎ去る季節が脱ぎ捨てた衣であった。見上げれば、まだ木蓮の花が見えた。さて、次の季節まで、自分は無事でいられるだろうか。ケンは息をつく。踏みつけた花弁は、地面に血色を拡げる。ケンの眼差しはさらにそこより深い場所を見つめた。じっと目を凝らしていると、じわりと涙が浮かんで、曇っていく。視界に滲んで消えていく季節の名前は、春といった。

lonely

さびしいを文字にしたり、体で表したり、何かに例えてみたりする。夕暮れ、帰り道、夏祭りの終わり、一人きりの駅のホーム。どれも、ぴたっとはまらない。心にあるさびしさと、腕の中にあるものが一致しない。体から感情がバラバラに砕けて、逃げ出して、原っぱの向こうに見えなくなってからようやく気がつける。そうなると、たんぽぽの綿毛のように、たやすく、ふわり、飛んでいく。風にゆすられて、"さびしい"の一番端っこまでもれなく、離れていく。小さな点になってしまった方が、最初の頃より、はっきりと感情全体を認識できた。さびしい、お前いないの、なんかさびしいよ、アヤ。なんかじゃなくて。ただ、さびしい。ぶわわっと叫び出したい衝動に駆られて、ケンは部屋の中で、たちあがったが、乾いた喉から、音は出てこなかった。走り出す。自分自身の感情の地平線もしくは水平線の部分まで、駆けていく。実際は、独房の中で、迷った犬のようにぐるぐる歩き回っただけだった。思考も円を描き、足裏が熱くなってくると、さびしさは室内をとっぷりと満たして、見えなくなった。

sly as a fox

間違ってる、適切でないとクロエは言った。ちょっとした言い間違いや英語を聞き取れなくて、ついついバカだから(英語ではslow)と自分を卑下するような物言いをケンがすると、度々、クロエは、自分自身を下げるな(lowするな)と言った。店の外にも中にも通りにも人がいないことを確認してからクロエは続ける。「こんな仕事を続けながら、生活してるなんて、賢い(cleverer)に決まってるだろ」キツネみたいにズル賢いと日本では聞かない熟語も付け加えられた。他者を欺き、危険と命を対価にして、のうのうと息をしている。朝焼けに似たオレンジ色のバラを抱えて、ケンはクロエの言葉を真っ向から受け止めた。それから、「確かにその通りだ」と呟いた。急にそのズル賢さが心臓から飛び出してきたりはしない。傲慢にも振る舞えない。だけど、自身は、弱く傷つけられただけの存在ではなかった。「クロエはかしこいな」「バカのふりする君よりはね」無自覚もまた罪であるとクロエは心の中でだけあきれたようにつぶやいた。

flower scent

柔らかな緑の中に、下を向いて白い花が咲いている。花びらは5枚。抱えあげると、甘いはちみつのような香りに包まれた。ゆるやかな枝が枝垂れて、みずみずしい様子を見せている。バラにしては、葉が違う。香りも違う。日本にいた頃も見たことがあるような気がする。あまりにまじまじと観察していると、ミシェルから"モックオレンジ"と植物の名を告げられた。オレンジの花みたいな匂いがするでしょう、しないかな。ミシェルは、ケンの腕に自分の腕を絡め、白い花に、ふんふんと鼻を近づける。オレンジの花をイメージしながらケンも再び匂いを嗅いだ。甘やかな空気が喉から肺を満たす。オレンジかどうかはわからない。気持ちが軽くなるクリアな印象が残った。初夏の庭をいろどる園芸種だと、うしろで作業をしていたクロエが付け加える。ケンは、スマートフォンを取り出して、検索する。"mock orange"出てきた画像と目の前の植物を見比べる。肩越しにのぞいてきたアヤが、ウツギ、いやバイカウツギか、と呟く。バイカウツギであれば、聴いたことも見たこともある。ウツギは、卯の花の別名がある4月の花だ。バイカウツギは、アジサイの仲間で、日本では5月以降に扱われる。当時は茶花(茶道で飾る花)として仕入れた記憶がケンにはあった。ウツギとバイカウツギの何が違うのか、花材の図鑑を見ながら四苦八苦したから、残っている。スマホの画面にあらわれた説明文を読むと、日本から持ち込まれた種がヨーロッパで帰化したと書かれていた。"naturalized plants"との一文を、帰化植物とアヤが小さな声で日本語にする。それから、いい匂いがすると続けた。あまりにも耳のそばで言われたものだから、ケンは、ぐぐっと首が熱くなるのを感じた。少し振り返ると、アヤと目が合う。モックオレンジの話だ、わかってるよと会話を投げ合い、ケンは花の香りをぐうっと吸い込んで、自分の感情が薄まるようにつとめるのだった。

peony

こどもはわたしの分身なの。それからやっと生きられるようになった。愛しい、という眼差しの先にはカーネーションを一輪握ったこどもがいる。目が合うと、しばらくじっとケンと見つめ合ってから、後ずさりする。優しい仕草で後ろに隠れようとしたこどもの手を握ったその人は、自分のために飾るといって、花を買っていった。ありがとうございましたと頭を下げたケンは、なんでこんな言葉を聞かされたのだろうかと、思案した。顔を上げると、目の前にまだ客がいて、何か見解をせまられるのではないか。背骨をぞわりとしたものがはったが、そろりとうかがった視界の中、親子連れは、繋いだ手そのままに、遠ざかっていた。男女それぞれの遺伝子を引き継いだ命は、誰の分身だろうか。母や父にとって自分はそういうものだったろうか。家族とは。考えると、ぎゅるると腹が鳴るのだった。業務に戻るため、ぐるりと踵を返し、店内を見渡す。もしも、花を贈るならカーネーションやアジサイより、今の季節なら芍薬が良い。まだ、かたい大きな蕾に触れながら、ケンは減った気がした腹の内が、開く芍薬で満たされる様を想像して、満足するのだった。