Amber Box
FANFICTION

雨が降る

小雨が霧雨に変わる。ひんやりした雨の空気。傘はささず、軒下で約束の時間になるのを待っている。見上げれば、柿の新芽。柔らかな葉先が水を受け、いっそう伸びようとしている。その細い枝と枝に網をかける小さな黄緑色の蜘蛛。蜘蛛は新芽より蛍光を帯びた色をしている。足元の草では、やはり小さなかまきりがいて、近づくと体をゆらり、ゆらりとゆらしてこちらを見ている。ゆらゆらする姿に気を取られていると、待たせたと傘を差した相手があらわれた。手には濡れぬようにビニル袋に入った本らしきもの。アヤは本屋に立ち寄るといい、ケンは雨が弱まったから適当に歩いてると話したのは20分ほど前。商店街を抜けた先、小学校の手前で待ち合わせ、と約束したのだった。何をしていたのかとアヤに問われたので、カマキリを見ていたとケンは答えた。近づくとゆらゆら揺れて、かわいいと付け加える。アヤもしゃがんで、カマキリと目を合わせようとすると、細い草の先に陣取るカマキリは、ゆらり、ゆらりと左右に揺れた。かわいいとは。かわいらしいととるか、威嚇と感じるか。霧雨に濡れることを厭わないケン。小さなカマキリをかわいいというケン。知らなかったし、知りえなかったとアヤは、傘をケンにも差し掛けながら思った。アヤがどんな本を買ったのか、ケンは、露ほども興味がない。けれど、ひやりとした雨の感覚が消えたことはわかったから、おまえの本が濡れるだろう、とケンはちょっと笑って傘から体を半歩逃した。

炊事洗濯

つきつきと痛む心臓を押さえたまま、ベッドにめりこんだ。窓の向こう、隣のビルより遠くから、夜がこちらを見下ろしている。何をやっても、自分を卑下する言葉ばかりが湧いてきて、ためにならない。なんてダメなんだと、いっそう反発するベッドに額を押し付けるのだった。そうしていると、ぴんぽーんと来訪者を告げる音。ぴんぽーんともう一度鳴る。もう一回鳴ったなら飛び起きて、顔を出そう。もう一度、もう一度。顔を上げて、ケンは玄関を見た。1秒が長い。いや、短すぎる。あーあと声に出すと、ぴんぽーんと間延びした音に呼ばれた。ばんっと跳ねて、玄関の扉に飛びついて、ドアを開けた。誰でもよかった。できるならーーー。忘れ物だ、とタオルを差し出したのはアヤだった。洗濯しろよと手渡され、素っ気なく去っていく。さっきの相手は顔を合わせたい相手だったろうか。汗くさいタオルと自分を部屋に引っ込めながら、胸元をおさえた。意味不明な焦燥感はまだ居座っている。これは、今日聞いたミッションの段取りの影響だった。前線を任されたことに血は熱くなって、頭は冷える。そんな感覚は、皆にはないのだろうか。アヤには、ありはしないのだろうか。つきつきと揺らぐ自分を、抱え込むと、タオルが鼻に当たって、ただただ、不快だった。現実に引き戻される。ぺたんとケンは床に座り込むと、生活をしなければならぬことが思い出されて、さっきよりか細い声で、あーあとこぼした。

flowers

花屋さんありがとうございました、贈った花、とても喜んでもらえました。チューリップを一輪だけ購入した高校生は、ふわっと笑ってから自分の声が店内に響いたことに気がついて、もぞもぞと照れくさそうに下を向いた。覚えているよ、もちろんとケンは返事をした。奥からわざわざ出てきて、ヨージもこちらこそと、業務用にしてはやわらかい笑顔を見せた。お世話になった花の好きな先生方にと、1本巻を20本のオーダーだった。学年のみんなでと集めたお金を代表してもってきた時も、今日と同じ様子だった。溌剌とした声が、跳ねた後、ひゅんと小さくなる。予算におさまるように、ピンクのラナンキュラス、丈短めのチューリップにスイートピー、ミモザと春の花を彩よく皆でそろえた。花屋で、注文するの簡単じゃないよな、こちらこそありがとう。うれしいと口にしてみると、ケンはその気持ちに嘘偽りがないことを悟った。いつも、前を通るたび素敵なお店だと思っていました。相手から返される言葉にも曇りがない。手元で、八重にほころぶ明るい朱色のチューリップがまぶしい。花を見るだけでもいいよ。ヨージの声も澄んでいる。また、来ます。去っていく相手に手を振りながら、ケンはヨージを見た。いい仕事したよな、とヨージはやっぱり澄んだ声を発した後、オレもオマエも、アヤもオミもと花屋全員を褒めた。当然と思いながら、ケンはもう一度、うれしいよなぁと呟いてからうつむいた。

さくらのきせつ、てんたいかんそく

「こんな曲は?」
啓翁桜と河津桜をバケツにおさめていたケンが天井を指差した。正しくは、ラジオから流れてくるマンスリーレコメンドの曲を指している。ピアノのメロディーが登って降りてを繰り返し、ボーカルの声が追いかけていく。春の歌だと紹介されていた。ただ、それだけでなんだか胸を打つような気がするけれど、
「急に覚えられないよ」
1回聞いただけじゃ難しくない?とオミは返した。カラオケで何歌えばいいと思うとケンに尋ねたことがはじまりだった。普通の高校生の身に付けているスキルとして、どんな歌を歌うことが妥当であるか。笑いを取るために真面目な顔で合唱曲か喉をうならせて演歌か、それとも流行の曲か。はやりの、と口にしたらケンにラジオからの情報を提案された。確かに、新しい曲を知るのにはちょうどよい。
「夜でも朝でも音楽やってるし」
「ケンくん、好きな番組があるの?」
「土曜の朝のやつ。店にいるとき、ほら。あれ、いいよな」
「あー」
わかるという顔をしてから、洋楽だから歌えないよとオミは肩をすくめた。聴いて心地よい音楽と歌えるはなかなか一致しない。口ずさむなら、メロディーでよいが、歌うなら言葉を声にしなければならない。
「高校生、大変だな」
「試験勉強もするし、カラオケも練習するし」
真面目だなぁと笑ったケンが、あっと声をあげる。
「この歌いいんじゃね」
「そうだね」
歌詞の中に出てきたラジオが天気予報を告げる。星を探して駆けていくメロディーに耳を澄まし、2人顔を見合わせて、いいねと頷きあった。

薑汁撞奶

今日も風が冷たい。モコモコしたアウターにスヌード、手袋に耳あてを外して身軽になると、ケンは、室内の暖かさに促され、やっと血液が巡り出すのを感じるのだった。そでをまくり、手を洗い、うがいをしてから買い物してきた中身を分け始める。ミシェルに言われたハーブティーは3種類、それから卵、肉の塊とラムチョップは冷蔵庫に持っていく。市場では積まれたしょうがを見た。寒い季節にはぴったりのスパイスだから、塊を二つ購入した。袋から取り出して、塊からかけらを切り取り、ごりごりすりおろす。使うのは絞り汁だ。食器棚から深いスープボールをいくつか取り出して、汁を分ける。肉をしまった冷蔵庫から牛乳を出して、鍋にかける。600cc。レシピをスマホで確認し、計量する。ふつふつしだしたら火から降ろし、料理用の温度計をじっと見つめる。適温を見計らって、さっきのしょうがのしぼり汁に一気に牛乳を注ぐ。これがジンジャーミルクプリンづくりの全てである。新鮮なしょうが、たっぷりの牛乳、温度を確認する余裕。ふと、台所の窓にうつる自分が見えた。頬はつやつやして、深い緑のセーターはよく似合っている。健康そうだ。引きずった影は見えず、ガラスの中の自分は、自分とは思えないくらい日常を暮らしていた。それでいいんだけど、と一人相槌を打ちながら、ケンは食後に食べるやわらかなプリンが上手に仕上がることをお祈りした。

黄鶴楼にて

春霞が立ち込め、花が咲き乱れている。遅い梅に、李、桃の花だろうか。ミツマタや雪柳、白木蓮にコブシ。白い花たちも花びらを降らせてくる。ざわざわとした感覚とぬるま湯につかったような快さが同じ舟におさまって、ゆるやかな流れの川を下っていく。

ファーストフード店には、平日だというのに学生らしい若者が集っている。そうか、卒業式が終わってしまったのか。肩の力が抜け、希望と不安と混ざり合った割にあっけらんかんとした空気を享受する様子を背景として聞き流しながら、ケンはハンバーガーにかぶりついた。それからポテトをかじる。卒業や春休みは過去、自分自身にも起きた出来事なのにそのあたりはぼんやりしていて思い出せない。ハンバーガーをもう一口。次はピクルスが一緒に口に入ってきた。酸味に頬の内側が緊張する。飲み込む頃にはうまいに変わるが、わかっているのに驚く。オレンジジュースを口に含んで、さっきのぼんやりの輪郭を追いかけていく。あんなに呼び合ったクラスメートの名前がちっとも出てこない。顔はわかる。放課後のグラウンド、朝礼前の他愛無い話、担任、給食。単語を並べながら、ケンは食事を続ける。どれも自分のこととは思えないと、自分自身との距離を感じながらケンは、ずずっと残ったジュースを飲み干した。ちらり、背後を見やると、何か話しながら笑い合っているグループが目に入った。同級生、クラスメート、先輩、後輩、友だち。友だちが今は一番わからない。ぐにゃぐにゃと過去の映像が歪んでいく。友だちと思い浮かべると、また頬の内側が緊張した。唇をすぼめ、奥歯をがちりと噛んでから、ケンは、友だちがいたことを、いつか忘れられたら良いのにと願った。

ともだちの姿はもう見えない。いや、まだ見える。水平線の彼方に溶けても、この星は丸いからどこかで、影を掴めるかもしれない。水も空も、白くゆらめきながら曖昧な三月の色をしている。川の行く先はどこだろうか。ただ、遠く遠くを見つめて、少し冷たい風を感じる春だった。