
Amber Box
FANFICTION
午前4時22分
つま先に冷めた湯たんぽが当たる。押しやってつま先を丸めると別の人間の足に当たった。すべすべする肌を足裏で確認してから、誰かがいない反対に寝返りを打った。部屋はまだしっかり暗い。朝が近い気配がしたが、夜のふりをして眠っていた方が賢い。背中に他者の眠りを感じる。少しだけ後ずさりすると、背中同士がくっついた。ぬくもりはない。それから、ごそごそと離れる。ケンは瞼を閉じながら、アヤがいることで薄れるむなしさをさびしく思った。
Im going MAD
ガーベラの花びらを噛むと、たやすくちぎれた。長い茎を折る。もう一度折る。簡単に商品がゴミに変わる。きっと自分もこうなる。花びらが机の上に散る。オレンジ色は朝日の色だ。抜け落ちていく力にまかせて、肩を落とすと手首を掴まれた。体調が悪いのかとアヤが問う。ケンは、生きていること自体が不思議なのだと返す。ピンクのガーベラをむしる。レジ横に飾っていた分だ。ケンはそれを羽のように散らす。アヤの指先がケンを手放し、花を救う。1週間以上、もったな。アヤの声にケンは自分も同じように生き延びたことを知るのだった。
本気メガネ
読みかけていた本を開くと、メガネのレンズの汚れが気になった。うっすら白い膜がかかったようになっている。ティッシュを一枚とって、拭く。掛け直して、まだ気になる部分を見つけてもう一度拭く。繰り返していると、近くにやってきたケンが尋ねた。
「アヤは、どっち?近眼?もう老眼?」
顔を近づけながら、ケンはこどもっぽく笑う。目尻の皺、前髪で隠し切れない眉尻、日に焼けた頬の赤み、耳の輪郭。眼鏡を外している方がアヤには、はっきりと見えた。今は自分の心もよく見える。過去も未来も、何度も確かめながら歩いていく。曇った眼鏡を外し、視界を絞り、目を見開く。歳を重ねることは無駄ではなかったとアヤは思っていた。眼鏡をかけ直して、ケンを見る。
「老眼も少しあるのかもしれない」
「やめろよ。まだ早いって」
「外した方が近くはよく見える」
ふはふはと笑うケンにずいっと顔を近づけて、アヤは止まる。目を細めると、ケンが照れたように視線を外した。
「オレは、よく見えてるから。近い近い」
肩を押されて距離を取られる。長い付き合いになっても、まだ人との間合いは測りかねるし、慣れないのだとケンは言う。他人であることが互いの中で、重要なのだ。同じ経験をしてもわかりあえない。けれど、疎外感はない。労りがある。
口を真一文字に結んだケンが、アヤから離れてソファに座る。眼鏡越しにアヤはまたケンを見た。輪郭はぼやけていたが、相手の心はくっきりと見えるようだった。
焦れる
後ろを歩いていたら、相手の長く伸びた影を踏んだ。二度、三度と踏む。痛くも痒くもないはずだが、悪いことをしているような気持ちになって、ケンは早歩きをして前のアヤを追い越した。今度は、アヤの足がケンの影にかかる。踏んだことに気がついて、アヤも早歩きをして、ケンの隣に並んだ。ちらり後ろを確認すると、影同士の肩が触れて、溶け合っている。隣を見ると、ケンの横顔があった。日暮れたせいか、相手の顔にあるまつ毛の影が目についた。黒が濃い。そして、長いな、とアヤが感じたところで、ケンと目があった。すい、と視線を逸らす。その眼差しにのるまつ毛をケンも長いなと思ったら、立ち止まり、おもむろにアヤの影を踏んだ。
40代は不惑
何がみえる?何が見えるって桜島だよ。あー、ほんもの見たことないのか、いっぺんみるといいぜ。このホテル、大浴場からも見えるんだ。広い風呂も久しぶりだから。え?え?なんか聞こえない。あー、うん。そうだな。え?日本語上手?久々で舌噛みそうなんだよ。知らない番号だから無視すればよかったって?いやいや、たぶん、おまえだと思った。ガードナーって呼ぶな。だから呼ぶな。今はそれが本名。ホークショーも提案されたけど、鷹を英語にするのいかついだろ。そうそう、職場の研修。花屋が今じゃ、ツリーワーカーだよ。日本じゃなんて言えばいいかな。管理者か。樹木の管理者。明日はロープワークとギアの展示会。体はいまがいちばん健康。で、用事は?用事はないのかよ。報告があったからか。え?いくつになったかって?おまえこそいくつだよ。
オミが40代か。
朝風呂には他にも数名客がいた。開けた視界には桜島がゆうゆうと陽光に照らされ始めている。また、この景色を見る日が来るなんて思いもしなかったと、ケンは静かに目を閉じた。息を吐くと、飛行機の乗り継ぎで、こわばった背中から腰までのまっすぐがあたたまって緩んでいく。30歳を過ぎて、庭師の資格を取った。その時に見たロープを巧みに使い、大木を整えるツリーワーカーに心を奪われた。この仕事がいいと決めてからはあっという間だった。そうして、社会の一員として生活するために用意されたいくつかの設定から、地方から来たガードナー家の三男坊を選び、以来そのまま暮らしている。36歳で今の会社に就職し、約20年ぶりに日本の土地を踏んだのだった。
電話の相手はオミである。Helloと言ったら、過去にも聞いたことがない声量で笑われてしまった。面白いね、相変わらずと相手は言ったが、こちらからするとだいぶ変わっているはずだった。今は仕事にあわせて作業しやすく、髪も短くしている。腕の傷は、ミッションで残ったものではなく、日常のタスクで負ったものだった。変わらないことがあるとすれば、過去である。過去は変わらない。
今回の旅は、イギリスで開催されたフォーラムの際に、次は自分たちの森でワークショップを開きますと誘われたからで、ミッションには何も関係がないし、他意も疑念もない。湯がしみる。肩を回すと、ごり、と音が鳴った。島を囲む海の色が緑がかっている。ここ最近見ていた海はもっと寒い国の色をしていた。灰色でやがて氷になりそうな色。木々もそうだ。植生の違いに、渡った距離を感じる。光の明るさも違う。朝も夜も違う。違うことがわかるような日々を過ごしている。
違和感があったとすれば、オミに"おかえり"と言われたことだろう。ただいまとは口から出なかった。頭が日本語を思い出せないからだとその時は思ったが、そうではない。温泉からあがり、ほこほこした体をベッドに横たえる。朝食まではまだ時間がある。緩む腕の先にあるスマホを拾い、チャット画面を開く。随分と前にアヤ宛に送った"仕事で日本に行く"という文面が残っている。返事はない。桜島が見えるホテルだとも書いたが興味は湧かなかったようだ。生まれた国、旅先の国、花が咲く場所、夜が長い街、砂漠、黒い森。足を止めて、心が動く。過ぎ去った時間の中に帰れたらと願う場所が風とともに移動していく。触れもしない高いところで吹き荒ぶ偏西風が強い。
窓辺に立ち、桜島をスマートフォンのカメラでとらえる。こんな小さな機械で、連絡を取り合うなんて未来の話だと思っていた。焦点をつかまえ、画面をタップする。カシャリと音がして今も現役の火山がデータに姿をかえた。また、タップしてチャットに投稿する。もちろん既読はつかない。送信できる間はアカウントがあるということに違いない。今度は自分の背景に桜島をとらえる。カシャリ。かなり笑った顔をつくったつもりだったが、写真を確認すると目の下のクマが目につく疲れた男がいるだけだった。ゴミ箱のアイコンをタップしかけて、指をとめそのまま保存する。旅の時間と年齢を考えれば相応の風貌だった。そういえば、昨夜電話している時に思い浮かべたオミはこどもだった。白髪が目立つんだよ、遺伝かなと笑っていたがいまいちピンとこなかった。昨夜の電話番号へのチャット画面を開き、自撮りの写真を投稿する。返事はないだろうけれど、すぐに既読の文字に変わってケンは苦笑した。
手の甲を見る。温泉につかってふっくらしていたが、細かな皺がある。いまだここからどこに行けるのかはわからない。もう一枚、写真を撮ろうと構えると、チャットの通知が入った。"I wish you a pleasant voyage."アヤからだった。旅の安全を祈られている。どうやら、ケンは無事に帰る必要があった。
"I’ll be back"、お前がどこにいるかは知らないけれど、どこかでスマホを見ているのだろう。しばらくしたら帰るよ、と書き添えてチャットの画面を閉じた。
やわらかな雨が降る
青が高く高く澄んだ朝、軒先に並べた鉢植えに、霧状のノズルからオミは当番である散水をした。鉢植えは、バラである。小さな蕾は、膨らんで、それぞれの色を見せている。山吹色、薄いピンク、しっかりした濃い赤。やわらかな葉をもやになって消えていく水滴が打つ。その光景がふいに、リズムとともに文字になった。
"くれないのにしゃくのびたるばらのめのはりやわらかにはるさめのふる"
模試に出た短歌である。教師は、中学で習った生徒もいるだろうと話していた。ちなみにオミは、知らなかったから、教科書の違いだろう。散水しながら、今度は声にした。くれないの、にしゃくのびたるばらのめの、はりやわらかにはるさめのふる。の、の、の、のと拍を打つせいか小気味よい。体を揺らしながら、リズムを取っていると、うしろから、
「朝から元気だな」
と少し眠そうな声をケンにかけられた。
「今日も模試だから最悪だよ」
結構大きな声だったかと、照れた様子でオミはぴたりと体を停めた。
「いいリズムだった」
「短歌だよ。教科書に載るくらい有名な」
そうしてまぁいいか、とオミは節を繰り返した。くれないの、にしゃくのびたる、ばらのめの、はりやわらかに、はるさめのふるーーー。
けぶる雨のなか、つるばらが、昨日よりも勢いを増しているような気がして、ケンは足を止めた。異国の街はバラを好んでいる。ロープやアーチにするすると這い上がるバラは、あちこちに小さな白い蕾をつけていた。来週には咲くかもしれない。霧状の雨が、静かに繁った若葉と茎を濡らしている。その棘もまだ若く、明るい緑色だ。
"バラの芽の針柔らかに春雨の降る"。
ケンの唇に、急に文章があらわれた。舌にのっかった音は眼前の光景にリズムを添える。だいぶ前、学生だった頃、国語の授業で習った気がする。胸のうちの透明なフィルターが、場面を文字に置き換える。やわらかな棘に街の霧雨がかぶる。ばらのめのはりやわらかにはるさめのふる、ふる、と呟いてケンはしっとりと濡れた道を駆け出した。自身の肩や腕から飛び出した棘や針のような尖ったものが、やわらかく、あたらしくなるような感覚があった。バラにも、ケンにも、街にもすっと天を目指して伸びていけ、と雨が降る。