
Amber Box
FANFICTION
飾るべきものがない
もうずっと泣いている。まなじりからぼろぼろとまばたきするたび、涙が丸いはっきりした球体としてこぼれ落ちていく。ほほをつたわり、首に垂れてきたのを手で拭った。ずっと泣いている。夜が憎く、朝が訝しく、星がうるさく、人を殺したくて、泣いていた。空の花瓶が窓辺にある。何を飾れば色良いのか桜の枝、首だけの紫陽花、枯れた枝、レースフラワー、芍薬、菊の花。輪菊だけでなく、仏花も活けた。どれもが、窓枠を彩るには欠けていた。涙があふれてくる。鏡を見ても、ぼんやりとした自分がいるだけだった。花瓶は、捨てられない。窓際で光を透している。透けているのは魂だ。見透かされている。
ミッションが終わり、警戒を解くと、返り血を拭うケンの輪郭が目に映った。最近は、戦闘の熱に酔って気持ち悪いとぼやいていた通り、ケンは膝から崩れ落ちて、げーげーと吐いていた。吐くための固体が胃にはおさまっていない。ぐぇぇと音だけを、宵に響かせながら、背中を丸めていた。惨めだとケンは呻いていた。呻きながら、息をしていた。近寄ってから、アヤはグローブを外し、ケンの背を撫でるのだった。ちらりと見上げてくるケンの目に感情ではなせない、体を傷めたからあふれる水があった。憐れんでしまいたい。丸い涙がアヤには、ひたすらに羨ましかった。だけれども、ケンは「ばーか、汚れるだろ」と、アヤを強く強く拒むのだった。一体、何を求めて、蠢いているのか。息を吐くとアヤは膝を震わすケンの襟を掴んで「立て」と攻めると、そのまま手のひらで反論を塞ぐように口元を覆った。「終わりだ」中天から見下ろしているだろう、月か太陽に言い聞かせるようにアヤがいうとケンはがざりと、口元に当てられた相手の中指を甘噛みした。丸い丸い涙が膝に落ちる。宵の内で、その粒が血か涙かは誰にも定かではなかった。
こんなこともある
趣味は合わない、好きな色は違う、金銭感覚がどうかは知りようがない。同じクラスにいて、友達になったかと言われたら、「声をかけようとも思わない」という回答だった。それはこちらもそうだ。プリントは渡すし、掃除はそつなくこなす。だけれど、かたや部活に忙しく、かたや別のタイムラインを過ごす夕暮れの校門ですれ違えば、あいさつはするだろう。朱色の光の粒が、制服にきらきら落ちてくる。掴むように、払うように手を振る。さよなら、また明日。興味を持てる関係にはならない。嫌いじゃない。でも、今は、「おまえ、むかつく。いや、そうじゃないんだけど」むかつくじゃなくて、恥ずかしい。部屋から出て、そのままケンはへなへなと座り込んだ。力が入らない。自室にこのまま、溶けてずるずる後退りしたい。台風が近づいて、あんまりにも蒸し暑いから今日は半袖にしたのだ。隣の住人も発想は一緒だったらしい。「珍しいが、我慢しろ」アヤの言葉は、"オレは着替えない"という主張である。「オレも脱がない」エプロンつけたら、そこまで目立たないだろう。それにしても、同じTシャツを着てるなんてどれほどの確率だろうか。確か店頭には、色違いで、カーキとブルーがあったのに、選んだのは同じ色。趣味も違うし、金銭感覚もきっと違う。日常の選択が同じになることはある。ケンの袖口は緩く、アヤは体にそっている。新品だから、まだ部屋着にはしたくない。「着るときは教えろよな」「気にしすぎだ」顔を背けたまま、階段を降りるケンをアヤはあきれた声でかわして、自分のTシャツのすそを正した。
リップサービス
かわいた唇をべろんとなめているところを見られてしまった。
水仕事をすると指や爪ががさつくから、仕事場には共用のプッシュ式のハンドクリームが置かれている。手先の感覚は、武器の扱いにも通じるから欠かせない。いや、欠かせなくなっていた。冬場だけでなく、年がら年中、必要な一手間である。しかし、その他の体のパーツをケンはさほど気にしたことはなかった。春とはいえ、長く雨が降っておらず、空気もそれを吸う喉も、からからと音がなりそうなくらい渇いていた。水分補給しなければと、訴える脳に答えようとしていたら、べろんと上唇を舐めていた。それをヨージに見られてしまった。
「なんだ、はらぺこか」
「そんなわけないだろ」
昼食はとったばかりである。午後の注文を確認しながら、うまそうだなぺろり、なんてリアクションをするはずがない。
「かんそう。空気乾燥しすぎだろ」
作業台の下に置いていた2リットルのペットボトルを片手で持ち上げ、ケンは、そのままごくごくと喉をならした。
「渇くんだよ」
「口、あけっぱなしだからだろ」
「あいてねーよ」
自身の唇をとんとん、と叩くジェスチャーをするヨージにケンはむすっと返す。注文のブーケは、お祝い用だと言っていた。むうっとした気分を振り払って手をつけようとしたケンにヨージが何か差し出した。ころんと小さなチューブ。
「リップクリーム塗っとけ。口にはつけてない。指にとって」
間接キスにはならないから衛生的にも心配無用とヨージはからかいの表情のまま、また自身の唇を指差した。確かに、乾いた様子はない。ケンはおそるおそる拾いあげ、そっと指先にクリームを押し出して、自分の唇の真ん中にのせた。左右に撫でると、ふわり、オレンジと何か樹の香りがした。
「ヨージ、これ、たけーんだろ」
ケンは、心地良さを伝えたいのに価格に言及してしまった。
「いや、値段じゃなくて、なんかいい匂いもするから」
改めて言い直すと、血色のよいヨージの唇が、ぱかりと開いて笑いになった。
「気に入ったんなら、ケンくんにあげちゃいましょうかね」
「え?」
「いいよ、それ。残り少ないし」
「いいもんなんだろ」
「いいもんだから、やるよ」
花屋さんは身だしなみも大事、大事。そういってヨージは、リップクリームのチューブを、ケンのエプロンのポケットにさしこんだ。
「ありがとな」
「はいはい、じゃあ作業再開」
ほいほいとケースから花材を取り出して、ヨージは器用に束ねはじめる。むにむにと唇を動かしてから、ケンも改めて、花を手に取った。スイートピーは甘い香りがする。掠めた香りに、ふと、ケンは今、ヨージの唇からも自分と同じ香りがしているのだと気がついて、さらに、むにむにと閉じた唇を左右に動かすのだった。オレンジと樹木のまざりあった馴染む香り。乾きは、満たしたはずなのに、また、ケンは口の中がひりひりと渇くのだった。
借景
眠っている穏やかな顔を見ていても、はじめて会ったときの、威嚇と絶望に似た怒りをたたえた刺してくる眼差しが忘れられない。吊り上がった、という目元はあの時、夜を踏みつけて立っていたアヤの顔にこそ適切な表現だとケンは思った。あの時のことをアヤに尋ねても、はっきりとケンのことは覚えていないらしい。ただ、深く深く怒っていたのは間違いないそうだ。ケンに対してではなく、触れるもの全てを燃やし尽くしてしまいたかった、と全方位への苛烈な感情を呟かれた。苛立ちも何もかもまだアヤの中にある。眠った顔の耳たぶに触れてみる。眉毛、アゴ、鎖骨。鎖骨は不快なのか、アヤの鼻からむうっという音が漏れてくる。嫌そうに鳴った鼻筋をなだめるようにさすってみる。あのはじめて会った夜を、ケンは煌々と明るく覚えている。よくわからないところがたくさんある。それを、アヤという個性だと今はふんわり思っている。わかるものとして真っ黒でゆらゆら燃え続ける火がアヤの瞼の裏にいる。今はもう切りつけるような眼差しを向けられることはない。あの日、確かにケンの脳裏には刃が掠めた傷が残っている。もう一度、アヤの顔に手をかざし、中指の先だけ頬に触れてみた。相手に黙って触るのは、秘密を暴くみたいだと、ケンは反省し、伸ばしていた指先を、ぎゅっと握り込んだ。
ともだちならいる
海を渡り、どんどんと暮らしなれた街を離れていくにつれ、他者から問われる内容が薄くなってきた。関係性の薄さに正の相関が感じられる。近づけば、知ろうとして、プライベートを他愛なくのぞこうとされる。一人でいることへの問い、パートナーはいないのか、いたのか。答えずにいると、怪訝な顔をされることもある。急に興味が失せたように距離を取られることだってある。誰かいる、と答えた方が場が平穏な時もある。やはり、誰もいないから、本心からいないと回答する方が多い。「家族は」という質問は別だ。大切な家族はいる。妹とは明かさない。”いる”ことはアヤの中では特別なことだった。今日の配達先では、いつもとは違う質問をかけられた。届けた誕生日のブーケは、ラベンダーカラーのリシアンサスとアジサイで、晴れた日の空をそのまま抱えたような色合いだった。部屋の奥からは、肉の焼ける香ばしいにおいが漂ってくる。
「ありがとう。あなたにも素敵な食事の時間を過ごすパートナーがいるかしら」
とてもうれしそうに話す相手に、アヤはきょとんとしてしまい、すぐには返事が出てこなかった。素敵な食事の時間を過ごすパートナー。2,3度瞬いた後、場の雰囲気をそのままにするくらいのテンポでは言葉にできた。
「ともだちならいます」
日本語ではあいまいな雰囲気をまとってそう伝えたかったが、思い浮かんだ英語では「I have a friend」だった。複数ではなく、単数。
「素敵なともだちなのね」
素敵かどうかはアヤには判然としなかったが、客の言葉には、やんわりと微笑みで返した。ともだちならいる。
たぶん。さて、そもそも思い浮かんだ相手は、ともだちだろうか―――。
そんなやりとりのあった次の日の朝、半分に切ってトースターで温めなおしたベーグルに、アヤはピーナッツバターを塗る。ケンは、ツナ+マヨ+コーンにして再度トースターで焼き目をつける。自分の好きなトッピングにしたものを半分ずつ交換する。ピーナッツバターとツナマヨコーンが皿にのる。半分こになったバナナとカットしたオレンジも添えられている。
「ピーナッツバターも悪くないな」
オレ、慣れてきて好きかも。ケンははぐはぐと頬にたくわえたまま、アヤに話しかけてくる。
「コーンは余計だな」
アヤももぐもぐと口を動かしながら、ケンに答える。オレが好きだからいいだろ。海を渡り、誰にも知られていない場所で、飲むコーヒーで人生は十分だった。好みに合わないトッピングに意見したりする朝食も、素敵とは言えないが、嫌いではなかった。家族はいる。ともだちもどうやらいる。相手の空になったグラスに牛乳を注ぎたす。ケンは、アヤのグラスにオレンジジュースを注ぎ足した。
「ありがとう」
思わず、アヤが口にすると、
「気にすんな」
と友達っぽい雰囲気でケンが口の端をあげて、返した。互いにどうもともだちならいるに違いなかった。
なにたべる?
サーモンとクリームチーズ、人気のビーフを挟んだやつ、プレーンをいくつか。「マスタードは?」「基本の量でいい」「りょーかい」明日の早朝、ジョギングがてらに朝食を買ってくる算段をつけたケンは、アヤにも食べたいものはないかと聞いたのだった。返事は即答。人気ベーグル店の名前を挙げてきた。ベーグル。アヤによると、アメリカにいた頃、食べ慣れたパン。ここイギリスに渡ってきたときも、人気の店があると知り、買ってみたそうだ。時折、朝食や昼食で口にしている。「オレがカレー屋多くて安心したみたいなもんかな」ケンの相槌にアヤは頷かない。大して違わないが、互いに和食でないところから察するに、旅人に向いている。「じゃあまあ明日」「牛乳でいいのか」「冷たいままでいい」「わかった」飲みたいものを確認し、互いに自分のベッドに帰っていく。食べたいものがある朝は待ち通しい。アヤは、コーヒーを入れてケンの帰りを待つだろう。プレーンベーグルはまた別の日に温め直してピーナッツバターを挟んで食べる。ピーナッツバターもアヤはアメリカにいる頃、食べ慣れたそうだ。甘いものだと勝手に敬遠していたが、実際は無糖のものが多く、ピーナッツの食感も相まって、ベーグルやサンドイッチによく合った。イギリスでも気に入りの商品が見つかったらしく、冷蔵庫に常備されている。朝、目覚ましより早く起きて、ケンは駆け出した。何の気配もしていなかったからアヤは眠っているだろう。おいしいベーグルにかぶりついて、少しだけコーヒーを牛乳に足して、インターネットでニュースを確認しているアヤに夕食を一緒に食べるか話してみよう。食事の後は、全員でミッションの打ち合わせのスケジュール。食べたいものがある。約束をしたい相手がいる。それは朝が必ずくることが呪いではないと感じさせてくれる要因だった。トレーニングウェアのポケットには財布とエコバッグ。準備体操のあと、ぐーんと両手を伸ばして伸び上がる。本人も誰にも見えないけれど、ぱちっと開いたケンの目を朝焼けのオレンジがなみなみと満たした。それはやはり、いつもやってくる朝が、希望であることの証だった。