Amber Box
FANFICTION

302号室への配慮

ぐっと木刀を握り込むと手のひらに爪が食い込む。爪を切らなければいけない。異国の地に持ち込んでよかったものの一つが爪切りだった。刀に限らず、どんな刃物もよく切れることが第一だ。丸くカーブを描く爪の白い部分に刃を当てる。パチン、と鮮やかな音が立つ。切り終わった指先でまた木刀を掴む。今度は爪が当たらない。ぶんっと木刀を振り降ろし動きを確認する。爪が引っかかることもない。爪が伸び、髪が伸びると時間の経過を感じざるをえない。それは、いたって普通のことであった。歯を磨き、顔を洗う。身支度を整え、鍛錬をかかさない。変わらぬ日常を過ごしている。一人だろうと変わらない。何人いても、自分自身は変わらない。ふと、もう帰るはずのない場所がアヤの脳裏によぎった。爪切りを一度だけ隣の部屋の男に貸したことがある。どうしても見つからないとやってきて結局そのあとすぐに新しい爪切りを買ったらしい。"アヤ"と呼ぶ情けなく萎れた声。思い出してまたたく。隣人は、今、どうしているのか。詮無いことだ。ただ、もしも探して見つからないなら爪切りくらい貸してやってもいい。パチン、と高い音が鳴る。"やってもいいは偉そうか"偉そうだなとアヤは自戒してから、上段に構えると木刀をまた振り下ろした。風を切る音が歌う。ぐっと握り込むとかすかに爪が手のひらに食い込んだ。

サベージ

髪がぼさぼさで、髭が適当に伸びても、一向に構わない。特別に与えられた独房で、視界をさえぎる前髪をいじった後、ケンは頬杖をついた。イタイ。伸びた爪が皮膚に当たる。身だしなみを捨てても、爪が育つのは止められなかった。服に引っかかり、自分を傷つけ、邪魔なことこの上ない。だから渋々、警備に声をかけて、爪切りを借りるのだった。自由意思による束縛とはいえ、刃物は持ち込めない。貸し出された爪切りで、ケンは慎重に親指から順番に丸く切り揃える。心も戸籍も人生も死んでいるのに体はゆうゆうと生きている。きっといいことなのだろう。ぱちんという高い音が静かすぎる部屋に広がる。全部切り終わると、ケンは両手で自分の顔を包み込んだ。それから頬杖をつき、前髪にまた触れる。どこにも引っかかることなく、指先はするりと抜けていった。つまらない。短くなった人差し指の爪を噛んでみる。ちりりと痛くて、やはり悠々と生きていることだけが、確認できた。

ドーレーミーレード

海を渡った当初は慣れないことがたくさんあった。けれど今は馴染んでしまった。わかるようでわからないことはまだ多い。それでも自分の好きにすればよいのだ。
ケンは部屋の主を待つ間、ベッドに腰掛けて、音楽を聴きながら雑誌をめくる。しばらくするとそれに飽いて、ベッドに横になる。イヤホンから流れてくる音楽は適当なリストをシャッフルしている。ギターが通り過ぎ、シンセが鳴って、djがプレイを続ける。わかるようでわからないのは、枕の数だ。ベッドの上にはクッションみたいな柔らかいもの、それのサイズ違いで大きいもの、硬めのもの、明らかに飾りだろうものと1人では使いきれない枕が置かれている。ここに引っ越してきた時にケンを困らせたものだ。今は気に入った硬さの枕を一つ置いている。刺繡の入ったリネンのカバーも気に入っている。しかし、この部屋の主は引っ越してきた当初の枕の数を維持しているようだ。つかんでは抱え、頭をのっけてみて確認し、ごろごろしていると枕の中にケンは沈んでいく。「どうやって使ってるんだ」これ。目を閉じて考えこむ。うーんと眉間に皺を寄せると額のあたりが人の気配を感じ取った。「好き放題だな」枕の山を剥ぎ取って、あらわれたアヤがあきれた声を出す。「マクラ、多すぎだろ」「それはオレもまだ困ってる」やわらかいクッションみたいなのを掴んだまま、アヤも眉間に皺が寄る。「このまま寝てるのか」異文化の波に揉まれているアヤがおかしくて、ケンは小さい枕を口元に当てて笑った。「寝るしかないだろ」それから珍しくふざけるように剥いだ枕をかき集めるとアヤはそれでまたケンを埋もれさせるのだった。なんだよ、バーカ。もごもごしたまま、ケンが笑う。それに反論するようにアヤはもう一つ枕をケンに向かって投げつけた。見事に命中した拍子にはずれたイヤホンから、かすかにきらきらした音がこぼれた。

深く考えずにそのままでよい

抱き合うだけで、満たされる。不足だったものが何かはわからなくても、体の内側が凪いでいく。風のない日の海岸線だ。さざなみの音は心よい。腕を伸ばした先に違う体がある。素直に抱きしめたい・抱き合いたいなんて言えないよな。言えるはずもない。高校生の自分には口に出せる言葉ではなかった、とケンは、テレビの中で再開した恋人の抱き合う様子に向かってつぶやいた。ただ、うれしくて安心する。下心ではなく、やわらかい気持ちが動かす衝動。だけれども、甘えるようで、言わなかった。言えなかった。
「いまなら言えるのか」
ソファに腰掛けたアヤが、声をかける。独り言なら無視でよかったが、それにしては長い告白だったから、会話のボールを投げた。
「今も難しいな。素直にっていうのが、一番難しい」
アヤからは見えないが、口元を歪めたような苦い口調でケンは難しいという単語を繰り返した。うれしいのに、手を伸ばさない。凪いだ内側が遠ざかっていく。ただ、遠くなっていく。そんなものだろうか、とアヤはそれきり押し黙った。
場面は転換する。「おせーよ」待ちくたびれたとケンはアヤに対してわざとうなだれてみせる。ミッション後の合流地点である建物は、予定通りなら裏口のドアが開いていて、ケンは入ってすぐの部屋に迎えが来るまで潜んでいる予定だった。しかし、なぜか鍵がかかっており、侵入に失敗し、ケンは目立たぬよう室外機の裏にしゃがみこむことになった。夜はまだ冷えて、わずか10分程度の間にかいた汗まで自分を突き刺してくるのだった。遅い、とささやき声でアヤに文句を言う。すまないともなんとも言わないアヤに、早く立つよう手招きされる。文句を言う相手はアヤではない。ケンは、ぎゅっと唇を結んでから立ちあがろうとすると、座り込んでいたせいでしびれた足がよたり、ともつれた。あ、と思ったケンを手を差し出していたアヤがぐいっと踏み込んで捕まえる。倒れぬよう掴み返したケンは、ぐっとアヤを引き寄せて、そのままぴたりと2人の体は静止した。抱き合ったどちらにも、倒れこまなかったことへの安堵が広がる。ケンの衣服は冷たく、2人ともぬるりとした血の匂いが互いの指先から感じられた。何か言いたくて、ケンはぎゅ、とアヤにしがみつく。
「むかし。オレが話したこと覚えてるか。その、高校生のオレの話」
素直に言えなかった話。夜に聞かれぬようアヤの耳元にだけケンはささやいた。
「覚えてるわけないだろ。一体なんのことだ」
やはり、密やかな低い声でアヤが返してくる。「だよな」もう大丈夫だ、1人で立てるよ、とケンはアヤの肩を押したが、うまく突き放せず、深く抱きとめられてしまった。それから、ぐううっとアヤの喉が鳴り、言葉が搾り出される。だきしめてくれ。ケンの耳に、聞いたこともない単語が響く。何が不足しているのかはわからない。急に自身の内側から満ちてくるやわらかいものに身をまかせ、言葉の通り、ケンもアヤを抱きしめた。
「素直ですげーな、オマエ」
凄いよ、と少しだけケンは笑って、ただただ、穏やかに息を吸って、吐いた。血の匂いは消せなかったが、焦燥は、夜の静けさにまぎれて、ゆるやかなさざ波になって消えた。

異邦人

砂の街に閉じ込められる。風が強すぎて向かいの建物すら舞い上がった砂でかすんでいる。けれども、窓枠はびくともせずに、砂の粒の侵入を固く拒んでいる。窓の外に関心を向けているとことり、と頼んでいたメニューを差し出される。飲み物しかない場所で出されたコーヒーから、はっきりとジンジャーの香りが立ち上る。スパイスがはいっているとはこういうことかとケンは、一口目を飲み干した。
昔、灰が降る街に住んだことがあった。天気予報に灰の予報がある。灰が降る日は、健康に影響するため、ランニングできない。コンタクトレンズでは過ごしにくいと聞いたことがある。過酷な砂漠の国出身のひとに、狂ってると心配されたこともある。灰の街もきらきらとけぶっていた。うかつに息ができないガラスのかけらが降り注ぐ街。 いくつもの場所で生活してきたことを思い出すと、コーヒーの味がさらに新しいもののように感じられた。甘くもないのに甘ったるい。あ。あ。口を開くと、ふいに人の名前を呼びたくなった。灰の街では知らなかった名前。呼びそうな気持ちに蓋をして、バーカと呟いた。窓の外では、また、砂が舞い上がる。
バーカ、バーカ、オレがバカ。もう一口、コーヒーを含むと、苦味とシナモンみたいな香りが広がって、つい、口が開いた。あ、あ、あ。アヤ。
「アヤのバーカ」名前を呼んでケンはテーブルに突っ伏した。

どうしてそんな目でみるんだろう。黒々とした光が、花束をとらえている。最初は、さんきゅーとカタカナだった音が今は、thank youとアルファベットで見える。どうしたら、そんな顔になる心持ちになるのだろう。クラスペディアの鉢を持ち上げたまま、ケンの方を見ながらアヤは考える。
黄色くまあるい球状の花が揺れる。月にも星にも似ているイエロー。抱えたまままでいるとケンと目があった。途端、ぐっとケンの目が見開く。驚いたようにまん丸くなってから細められる。頬はあがっている。なんだよ、と呼び止められるが、用事は一つもないとアヤは首を振った。あわせてクラスペディアの細い茎もゆらゆら揺れた。どうして、そんな顔をするんだろう。首を振ったアヤの落ちた目線がまたこちらを見つめるよう、ケンは願った。叶わなくとも良いのだけれど祈った。