Amber Box
FANFICTION

逃げ遅れた夕方

スニーカーで、水たまりを盛大に踏んだ。爪先から濡れてくる。不快なぐちょぐちょした質感に、ケンは自分の注意力の足りなさに奥歯を噛んだ。差した傘を雨がいっそう強く打つ。気持ち悪い。濡れた感覚は足裏全体に広がっている。店まではあと少しだけれど、だからこそとケンは靴と靴下を脱ぎ、歩道を裸足で踏んだ。地面の熱のせいか、伝わってきたのは温かさだった。夕立対策は傘を持ってでて万全のはずだった。あー、と叫び出したいような気持ちを隠して、ぺたぺたと急いだ。ズボンの裾も濡れる。足裏がざりざりする。こんなはずじゃなかったと花屋に辿り着くと、店頭にいたヨージに見つかった。
「どっから逃げてきたんだよ」
「逃げ切れなかったんだよ」
雨に追われて、つかまった。
「つっかけ持ってくるから、その足で入らない」
入るなよと念を押してから、まぁわかるとヨージは笑った。水を踏んだから、ケンのつま先がふやけている。とにかく逃げ続けるしかない。 振り返ると雨は小降りになり、建物の隙間には夕暮れのオレンジが見えた。タイミング悪かったなとサンダルを差し出しながらヨージが軽口をたたく。いつもだよ、昔からずっととケンが返すと、オレもそうだなとヨージが低い声で応えた。

日常

使い終わったハサミを洗う。まずは、食器用洗剤で、汚れを流す。スポンジに液体を垂らし、ぎゅぎゅ、と何度か揉むと、真珠のように小さなシャボン玉が散った。すぐにシンクに落ちて消える。ハサミを擦り、またスポンジを握る。ぱっとシャボン玉が浮いて、光って、消えた。ゆっくり目で追っていると 「なんだ、虫でもいたのか」と勢いのあるケンの声がアヤの背中を叩いた。そうではないと首を振ると、じっと見てたからとケンは首を傾げる。ハサミはこの後、台所用漂白剤につけて消毒する。スポンジの泡を流し、水切りしてから、アヤが振り返るとケンと目があった。白目と黒目の境界に、小さな光の粒が見えた。そういう光に気を取られる。人の中にあるような光が目に留まる。なんでもないとケンを退けようと手を伸ばし、アヤは触れるのをやめ、ただ静かに首を振るのだった。

台風一過

台風の後、道端に青い柿が落ちていた。折れた枝もある。柿は握り拳くらいの大きさがあった。ぽとりと軽い音ではなく、ごろんと受け身を取るように地面に到達したのだろう。大風には抗えない。左右、上下にゆさぶられ、ふわりと浮き上がり、重力に引っ張られる。当たり前のことが起きただけだ。柿がどこから落ちたのか探ろうとケンが視線をあげると、後ろを歩いていたアヤと目があった。アヤも柿を見ていたようだ。「立派だったのに」ひどい風だったと数日前の出来事を思い出そうとすりかのように、アヤは目を伏せ、青柿を一瞥するとゆっくり顔を上げ、ケンと視線を合わせた。 日常会話をする互いの間に、出会ったころにはなかった信用のようなものを感じて、ケンの胸の内は抗えず、上下左右に小さく揺れた。ぐるりとかき混ぜられるのは違和感だ。友達でなく、利害も異なるのに、平然としているように見える。「どうせ渋柿だから」どうせも渋柿もアヤとの会話の返答になっていない。ぐるぐるしているのに、心情は混ぜ返されていないと、自分自身への負け惜しみとして、ケンは青柿を蹴るのだった。

シック

スプレー菊の細い花首が一つ折れていた。水を揚げ切れなかったのだろう。中心が茶色、外に向かっていくにしたがって、色は薄くなり、オレンジを帯び、いっそう淡くなっている。仕入れた時につぶやかれた"洒落た花"というアヤの言い方はちっとも洒落ていなかったが、花は愛らしくオシャレだった。サルトリイバラの緑の実、ユーカリの小枝と束ねる。秋を感じさせる色合いにまとまった。
 洒落たのようにアヤは時折、年齢よりも歳を重ねたような物言いをする。洒落、って何だよと思いながら、ケンの目元がゆるんだ。

果てしなく遠い

水を飲む。しょっぱいと思った味にも慣れてきた。硬水だからと体も脳も知っている。他にも鉄の味がしたり、苦味を感じたこともある。日本の温泉にも湯を飲めるところがある。異国の水のように、透明なのに、塩や鉄の味がする。オン・センと真ん中で音を区切りながらケンの言葉を繰り返し、クロエは、すっと目を細めた。日本にはその名前をもつ公衆浴場がたくさんあるらしい。それはクロエにとって、果てしなく遠いところであった。遠いと返すと、山の中にあるからなとケンはクロエが感じているのとは違う距離感を口にした。価値観や経験も違う。遠すぎると胸の内でつぶやくと、その時はオレが車を運転するよとケンが自信ありげに口角をあげた。どこか山の中、見知らぬ鳥が鳴き、空は知らない青をたたえて光っている。陽光は濁った熱い湯を照らす。クロエにとって果てしなく遠いところは、ケンにとっては良い場所なのだろう。水を飲み干しながら、行ってみたくなったと思ったが、クロエは肩をすくめるだけにした。

フォトジェニック

後ろからは、迷いなく前を見つめているように見えた。正面に回り込んで目を合わせると、泣きそうな顔をしていた。少し伏せた視線がそう見えるだけだ。唇が動いても、魔法を唱えるわけでもない。機を逃さぬように息を吐いて、気合いのうめきがあがる。混濁したものを抱えているのは間違いない。それでも時折、ケンはアヤに絵のような静けさを見た。教科書に載る名画のような荘厳。自分自身の感受性がどこにあるのかはわからなかったが、風ない海のような静寂をとらえると心が震えた。アヤ本人に、ミッションの最中は絵みたいだと言ったら、暗くて何も見えるはずないだろうと、意味がわからないという顔をされた。勝手な感想だし、ちゃんとお前が生きてると知っているよと返すと、さらに意味不明だとアヤの眉間に皺が寄った。絵は表情を変えたりしない。止まった時がそこにあるだけだ。人の一挙手一投足にも刹那、視線がとらわれる時があって、写真のように焼きついて、記憶になる。伝わらないよなと言葉を飲み込んで、まぁ、オレ目がいいんだよとわかりあえなさを深めるような言葉をケンは続けた。