freebie
hanami
春の匂いがする。日本にいた頃の春は、新緑が芽吹き萌える楠の香りだった。冬を抜け、湿度が増すと、特徴のあるスパイシーさと柑橘類のような香りを春だと感じていた。夏の足音でもあった。街が違えば春も変わる。甘いハチミツみたいな花の香りがする、とアヤは深呼吸をした。少し前を歩いているケンの後ろ髪が跳ねている。そんなことも季節の一部のような気がした。ぴょこりとケンが振り返る。目的地が見えたからだ。キューガーデンのチェリー・ウォーク。満開の桜たちの出迎えである。
日本でも、こんなにいろいろな種類を一度に見ることは簡単にはかなわないだろう。キューガーデンが、植物園だからできること。図鑑をひらいたように、ぱっと桜たちが咲き誇っている。八重で、濃いピンクの牡丹桜が青空の中を揺れる向こうにまた違う桜がふわふわ揺れて、地面には若々しい青草とチューリップが咲き、春のグラデーションをつくりだしている。大ぶりな牡丹桜に顔を寄せ、香りを確認していたケンは、わからんと手も広げながらアヤに振り返った。その前髪に、肩に、花びらがのっている。近寄って、肩の花びらをつまんで落とす。ありがとうと言ったケンの指先もアヤに伸ばされ、頭についた花びらをひろわれた。キリがない。ざざぁと吹いた風に舞い上がる花びらを互いに見つめながら、キリがないことが楽しくて笑いあった。
花屋でよかったとケンが続ける。なんで花なんか、仕事なんかと最初は思ったけれど、寝て起きるだけの毎日で取りこぼしていたものを思い出すにはぴったりだった。チューリップの茎が伸びるなんて知らなかった。前日は閉じていた桜や桃の蕾は開きだすと早い。紫陽花も色が多い。アキアジサイは朽ちたような色もしゃれてる。時間が動いていること、季節がすすんでいること、色があること、芽吹き、枯れ、捨てられて、また巡ってくる。否が応でも目がひらいた。街の天気も気にかけるようになった。温度も乾燥も、誰かなんていないから、もちろん花瓶にもプランターにも自分で水を注いだ。ぽってりとそのまま落ちた牡丹桜を手のひらにのせて、ケンはアヤに差し出す。
「花、いいよな」
桜、チューリップ、水色の空、春のど真ん中で、ケンがごくごく普通のことをつぶやく。牡丹桜をつまみあげ、ケンの頭の上にのせながら、アヤもまた、花屋という仕事で感じた季節や時間のことを思い出した。
「儲けるのは大変だな」
「花屋みたいなこと言うじゃねーか」
ふははっとケンが笑うと、ぽろんと桜が小径に落ちた。どこにいても、桜を一緒に見る気やすい相手がいることは、巡る春を迎えるのにかけがえのないことだった。
sensitive
爪で、ケンから見て、むかって右側の乳首をTシャツの上から摘み上げた。あっとあがりそうになった声を喉元におしとどめてから、アヤはケンを睨んだ。いたずらしてやったぜと言わんばかりのケンを捕まえて、アヤは相手の胸元を服の上からまさぐり、目標をみつけると、じわりじわりと、こねた。強くつまみ、押し潰し、先端を引っ掻き、またこねくる。人差し指の腹で乳首の先端を撫でまわし、参ったまいった負けましたともがくケンを逃さぬように体全体で包み込んだ。体格差はあまりない。敏感な部分をいじられて、ケンの息は掠れている。力も入らないのだろう。逃げようとする割に、腕の力は弱々しい。何がしたかったんだ、とアヤが囁くと、ちょっといちゃつきたかっただけと、恥ずかしそうにケンが返した。アヤが力を緩めると、くるりと振り返ったケンが、抱きついてきた。このくらいがいい、と掠れた声が甘く呟く。それはそのとおりだなと、体に湧き上がった欲望をアヤは静かに飲み込んだ。けれど、飲み込みきれず、ケンの頬と耳の境目あたりに唇を押し付けた。
morning glory
朝顔咲いてた。小学校の隣の家。竹をたてかけて、プランターから伸びた朝顔を這い上がらせている。手のひらか、それより少し大きい丸い花が咲いていた。青。吸い込まれそうな青。赤みが強い紫。白。白に青い筋がはいったもの。花を見たら、途端に周囲の音がケンの耳に流れ込んできた。早朝だというのに騒がしい蝉の声、遠くを過ぎていく車、しんとした気配。ミッションが終わったのは2時間前だ。非日常に落ちぬよう、あの世とこの世の境目を慎重に歩ききるため、日常を拒んでいた体中のセンサーが朝顔の花が開くように生活するという回路に繋がっていく。じわり、暑さを皮膚が思い出す。朝顔の横を通り過ぎる頃には、絡みついていた深い夜の気配はほどけ、引き摺るようだった足は、腿からあがり、一歩が大きくなった。朝に向かって帰っていく。そんなふうに心の内側を波打ったものを、誰かに聴いて欲しくて、誰にも伝わらないだろうから、「朝顔咲いてた」と事実だけを切り取った。「オレも見た」駐車場のある道筋の家の前。夏の空と同じ色。見たと言ったアヤとケンの視線が重なる。夏だな、と呟くと、たったそれだけのことで、ケンは魂のようなものが、カチリとあるべきところにはまり直すのを感じるのだった。
onsen jigoku
急に、意識が浮上する。寝ていた。なぜ、眠ったかが思い出せない。お賽銭をいれて入湯する温泉が珍しくて二人で立ち寄った。お地蔵様に並んで手を合わせ、注意書きに目を通す。長湯は厳禁と書かれている。はて、さて、温泉とはゆっくりとつかり、時間を過ごすものではないのか。アヤがケンを見る。ケンも知らんとアヤを見た。引き戸を開け、中に入ると脱衣所とこじんまりした正方形の浴槽があった。湯の香りが途端、熱と一緒に肺に飛び込んでくる。いそいそと服を脱ぎ、体を洗い、手だけを湯船につけて、温度を確認する。ケンの大丈夫そうな様子にアヤはつま先を慎重に、それより先はざんぶりと体を沈めた。ちょうどよい。時間厳守だったよな、と言ってからケンは何やら数字を数え始めた。100と20秒。ざぁっという音とともに立ちあがり、温泉はそこでおしまいだった。
腕がだるい、足がだるい、眠い眠い。二人、宿に帰ってきてそのまま畳に溶け落ちたのだった。温泉の成分が強いとはこういうことか。ここ数日、数ヶ月のもどかしさや怒り、むなしさに戸惑いすら、思い出せぬほどに、どっぷりと体が沈んでいた。眠気だけがある。ぱちぱちと瞬きしてから、アヤは生存確認のため、腕だけケンの方に伸ばした。ちょんっとうつぶせた頭に触れる。生きてるよ、眠いとケンは言って、アヤの手をぽんぼんと叩いた。普通の休日みたいだった。一旦、湯の中に置いてきたのだ。記憶も思考も、ごっそり全部。寝る、と言ったのはアヤだった。うとうとする意識の淵で、ケンはオレも、と同意した。知り合ってから今日が一番意見が合った気がすると、アヤの手を掴んで、ぎゅっと力を込めた。
アンソロおまけ
素敵な企画、主催者様、
参加者の皆様に感謝を込めて