
Amber Box
FANFICTION
ホトシンセシス
澱んだ水に追い討ちをかけるように雨が降る。三寒四温。寒さ暑さとは別にこの季節は思いの外、雨が降る。たたかれた植物は、水と太陽とに鼓舞されて、春を芽吹く。花咲く。 「光合成だよ、ケンくんも勉強したでしょ」期末テストが無事に終わったオミは、店先で雨を仰ぐケンに投げかけた。 「勉強した、勉強した。けどな、いつ使うんだか」「花屋さんやってる今だよ。太陽、水、二酸化炭素」雑菌が繁殖したら水を吸い上げなくなるから、切り花の水には延命剤を溶かす。 「お客さん少ない内に、棚卸ししてきてよ」「うえー、おもてーし」「力仕事は、ケンくんを頼りにしてます」 えー、と反論めいた呻きを残して、ケンは立ち上がり、オミの指示に従うことにした。何もかも適切な環境でなければ健やかさが保てない。花も人もきっと同じだ。花も人もよく似ている。 延命のために、人は何を溶かして飲めばよいのだろうか。「ケンくん」「明日は、晴れるよ」天気予報が当たれば。 にっこりしたオミの目には光があった。雨の音に消えない陽光。ケンはぽはっと息を吐く。他人と接する中に、健やかさが溶けている。そのカケラを吸いあげて、ケンもまた春に芽吹くのだ。 花が咲く。「晴れるといいね」「あぁ」だけど、雨も大事だろうと返すとオミもそりゃぁね、と頷いた。
ゴールデンアワー
ふと、立ち止まり、視線をあげると、そこにはヨージの顎があった。はっきりは見えないが、起き抜けのぼんやりした空気をまとっているのは間違いない。 真正面から見たりするよりも、なんだか喉元だけを見たほうがいっそう整っているようにケンには思えた。 おーい、と早朝の時間を憚って控えめに呼ぶと、何事だと視線が降ってきた。「早く支度しておりてこいよー。今日は、忙しくなるぞー」バレンタインだぞーと言い添えると、ふはっとヨージの周りの空気がほぐれた。 「先週から、バレンタインみたいなもんだ」ヨージは、ひららっと指先を蝶のようにひらめかせ、ケンに応える。ひらひらは、そのまま何かを言いたげな口元を押さえる。確かに、先週からあれこれとヨージがプレゼントをもらう姿をケンは目撃していた。優しい声音がありがとうを告げている。 あふれるスイートピーの甘さより、華やかなラナンキュラスより、まあるいガーベラよりヨージの周囲はどこよりも春めいていた。ふわり、明るい。「お前は今日だけが特別な日じゃないんだろうけど」「そのとおり」「じゃあなおさら、労働しろ」気の利かないケンの返しに、ヨージの目元がくしゃんとつぶれる。 そんな顔されるような返答じゃないぞとにらみつけたが、ヨージはまた指先をひらり、ひらりと揺らして風をたぐった。少し早い春の気配がからみつく。蝶のように音もなく、ひらひらと踊ると、触れてもいないのに何故だかケンの内側に、ふわりと陽の光が落ちた。見上げたヨージの顔には影が落ちている。 やはり、どこよりもそこには甘く、華やかで、丸い春があった。
よっぱらいの言うことを本気にしないでくれ
途中から記憶がない。はっと目を覚ますとベッドの上で丸くなっていた。口の中に不快感はないから歯は磨いたのだろう。しかし、アルコールのせいで、からからと喉が渇いていた。 体を起こすがやはり記憶がない。どこらへんで失ったのか。三杯目のグラスと相手の顔が浮かぶ。グラスの中身は、焼酎。 鹿児島で過ごしたなんとやらで、芋焼酎をロックで飲んでいた。お湯割りでなくて、ロックでないと芋焼酎じゃないとかなんとか口にしたが、そもそも口にした記憶はない。ただ、スーパーや飲食店で並んだ瓶をよく目にしたことはある。 どんな味かはよくしりもしない。しりもしないのに大言を放った。 記憶の先が途切れている。目の前の相手は、へらへらしている。何があったんだろう。クリアな視界がわからせてくれるのは、酒が抜けていることだ。悪い酒ではなかった。ちっとも気持ち悪くない。 火が出るほど恥ずかしいが、ここは確認するしかない。昨晩、何を話したのか。何を聴いたのか。 「あー、調子は悪くないみたいだな」身なりを整えて店に顔をだすと、ヨージがへらへらとこちらに手を振った。へらへらじゃない、にやにやだ。 口をへの字にしたまま近づいて、ケンは視線を逸らしながら、"昨日は"と口にした。「金は気にすんな。ちゃんと割り勘にした」財布見ただろ、とヨージは軽やかだ。いや、それはそれとして。ケンはまた口を開く。「何、ケンちゃん。変なこといってないか確認?」ぼわわっとケンの頬に火が灯る。 察しが良いのも考えものだと責めようと前に出ると肩を押し返された。「なんもねっーて。仕事の愚痴もなし。色気もない。ただ」「ただ?」 「ヨージは優しい、ヨージがもてるのはわかるってめちゃめちゃ褒めてくれたわ」「う、うそじゃないな、なんかある。なんか覚えがあるわ」「素面で褒めてくれてもいいんだぜ」「バカじゃねーのか」灯った火を消すように頬を膨らませてケンは語尾を荒げた。酔っ払いの言葉を真に受けるものではない。 「おまえは、悪いやつじゃねーが、誉める所はない」「いうねぇ」ひひひっとヨージがにやにや笑う。むかつくと足を踏み鳴らしてケンは踵を返した。言ったわ、言ってないわ、知らん、知らん。ようやっと昨日のアルコールが頭痛を鳴らしてくる。知らんと首を振ってケンはもう二度と酒は飲まないと誓った。
なんでもない夜
月に自分の顔がうつった。目に月がうつりこむ。いや、月はない。細い三日月は、低い位置にいて、あたりをうかがっている。 潜む相手の顔が見えた。じっと睨み返される。あわせるようにこちらも睨み返す。なんだ、一体全体。月がその不機嫌さも削り落としてくれればよいのに。 ひた、と屈むとまた視線を感じた。睨まれるのには慣れてきたが何が不服だというのか。 「そんな顔で見るな」それはこちらのセリフだ。言い返そうとすると、相手の目が伏せられる。 「心配は無用だ。慣れてる」心配。思わず驚いてケンは自分の目をこすった。心配そうな顔に見えていた、睨み返したはずが。 聞き間違いではない。自分の顔のどこに労りが張り付いていたのだろう。月が皓々と照らさないからこの有様だ。 瞬いて相手を見る、アヤ、おまえ、何言ってんだ。もし、憐れみを見るなら、外側ではなく、内側にあるものだ。ケンは奥歯を噛んだ。 俺に触れてみればいい。優しさやいたわりは夜に奪われて、どこにもない。奪われた熱を取り戻したくて、焼かれた平穏の燃えかすを握りしめている。 それは誰だってお前だってそうだろうと迫り上がった胸の内を吐き出そうとしたら、アヤの白い首筋が見えた。その先には唇。鼻筋を辿れば眉間。 そこに引き攣れた意志はなかった。静かな眼差しに見透かされている。勝手に、憐れみを見た。労りを見た。怒りを見た。悲しみの波音を聴いた。人のことは言えない。 外側にうつったそれは、全て自分の内側に残っているものだ。触れてみたい。そうすれば、何もかも理解がすすむような気がした。 「心配なんかしてねーよ。信用してる」信頼してやる、ミッションの間は。「俺はまだ信用しかねる」「いいよ、それで」ひそめた声でジャブを入れ合う。 お互いの目にお互いがうつる。でも、もう余計な感情はなかった。ただ、整然とした仕事の感覚だけが、共有された。 月はなく、人は消え、狩人の影だけが夜の切れ目に残った。それすら、這い出た三日月の爪が削り取る。そうして、もう、ほんとうに何も残らなかった。
ラピスラズリ
あそこの会社の電話。並んでコンビニから帰っているとケンが口を開いた。 「ヨージ、あそこの会社の保留のときの音楽」「わかるけど」「やっと思い出したんだよ。学校で習ったやつだ」 ん?とはてなマークを表情に浮かべたヨージはそのままにケンは口ずさむ。ふふふ、とはじまった鼻歌は、本線へ至る。 ーーー夜明けのこない夜はないさ。ささやくようなケンの声が歌い続ける。ところどころ掠れながら、歌詞は次第に遠くへと旅していく。 「やっぱり、練習したのは忘れねーな」ひとしきり歌って、からっと明るい声で隣を見るとヨージは何やら言葉を探している様子だった。 「いい歌すぎるな」「それは褒めすぎだろ」「ケンの声も悪くなかった」「え?」「いい歌すぎる」今度はケンがはてなマークを額にのせることになった。 光差すメロディは、ヨージの心の錆び付いた部分を軋ませる。ケンの無意識が浮かびあがらせた歌は、ヨージにはひどくキレイだった。 並んで歩く歩幅が合う。まだ歌おうとケンの口から鼻歌が漏れる。これ以上聴いたら、泣いてしまうかもしれないなと肩をすくませてからヨージは、ぎゅっとケンの頬を引っ張った。 歌ってくれ、歌わないでくれ。不服そうなケンにヨージは、そっと片目を細くして笑いかけた。いい歌すぎるよ。
ワールプール
イルカがおすすめ。この街に慣れるためにも観光地に行ってくるといい。 桜島は定番すぎるから、水族館がいいんじゃないかな。天気がよければ桜島も見えるし。 社会見学よ、とチケットを渡され、送りだされたまではよかったが市電の中でケンはため息をついていた。まだ、 数回しか市電も利用したことがない。歩ける範囲をうろうろしたり、生活必需品をスーパーで買うくらいしか行動も思いつかない。 組織に属してはいるが、構成員はみな、日常に溶け込んでいるから、特別な所作もない。 指示があるまで、待てと言われて、灰の降る街で息をしながら潜めるしかなかった。そんな中、指示役の女から渡された水族館のチケット。 市電がもうすぐ水族館の最寄りにたどりつく。イルカを見ても、プールの中で飼われている処遇と自分を重ねて空しくなるだけじゃないだろうか。 変装のつもりもないがかぶってきたキャップで目線を隠すとケンは、息を吐いた。外気はほどほどに暖かく、緊張感が微塵もない。 水族館は、平日の午前中だから、ほとんど客はいなかった。早速イルカやアザラシがあらわれたが、気持ちが動かない。 動物側も同じなようで、こちら側の人間に目もくれず、水の中を回っている。 おすすめとは言われたが、静かな青の中、もがいてささくれだった自分の心を確認するばかりだった。 ぼんやりとした心持ちのまま、クラゲの群れを通り抜けると、ケンはようやっと足をとめた。黒い溶岩の飾りの下を抜けると、この街のすぐそばにある海中の展示だと説明があった。 活火山を抱いた大量の水は、サンゴといく種類もの魚たちを泳がせている。薄暗い空間で光を当てられた藻が輝く。 市電に揺られて、なじみのない街で、自分以外誰もいないホール。水槽の中には何百という生き物がいて、海にいけばもっとたくさんいて、その一匹たりともケンに見向きもしない。 踊るような桃色の小さな魚たちは、ただ、そこにいる。するとケンはゆっくり天井を仰ぎ、魚と同じように息を吐いた。 目には見えないが、胸の内にたまっていたそれは小さなあぶくになって、散り散りになり、消えていった。 そうだ、俺、死んでなかった。誰もいないから、言うけど、生きてるんだ。囁くような呟きは、同じタイミングで流れた館内放送に覆われた。 振り返ると、遠くにクラゲの水槽が見えた。 心なく通り過ぎたが、ジンベエザメもアザラシももう一度見てみようとケンは、ルートを遡り始めた。目深にかぶっていたキャップをぬぐと視界には明るい海が映った。